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横光利一『機械』

かつて教科書で出会ったのは『蠅』だった。これは駄作である。

図書カード:蠅

日常の儚さがどうとか蠅の視点がどうとか暗喩だとか言われるのは、これが「文学」として紹介されているからで、そういう見方をすれば、どんな作品も名作である。HUNTER×HUNTERは休載を続ける事で永遠性を獲得しているとも言える。

(もちろん、文学とはどんな作品でもそういう見方をして楽しむべきものではある)

とにかく、こんな胸くそ悪い打ち切り話を書くような作家は奇をてらっていい気になってるクソ作家だろうと長年思っていた。

結論から言えばこれはとても勿体ない事だった。

『機械』はメチャクチャ面白いのだ。

図書カード:機械

クールガイの物語

『機械』は自身が『純粋小説論』で述べているように第四者視点から描かれた作品である。第四者視点というのは何かというと、簡単に言えば超スペシャル冷静な人間のことである。いかなる状況にあっても己の感情を分析し、周囲を冷静に見渡して行動する主人公。昨今のラノベでよく見かける奴だ。

その冷静マンが危機的状況に投入される。そうして冷静さに揺らぎが生じる様が描かれていくというのが『機械』の概要である。なお『時間』もほぼ同じ筋である。その他の作品はまだ読書中。

図書カード:時間

 

我思う、故に我在り

「第四者視点」の何がそんなに面白いのかと言うと、主人公が場面場面で抱いた感情について、思考が巡らされる様が描かれる事だ。風景を描写するかのように、考える事が描かれていく。主人公が「考えている」ということは、その存在感を確かにしているといえる。『機械』では初めは被害者側の立場での思考が描かれるが、やがて加害者側の思考へとシフトしていく。そうして登場人物達は度々衝突するのだが、主人公はその様も冷静に分析する。まるで他人事であるかのようだ。「私」が語り手であり、確かに「私」が考えているにも関わらず、それは「私」から一歩退いている、そんな不思議な世界が「第四者視点」だ。

 

安定の打ち切り感

『機械』は、終盤エッそうなるのっていう唐突な展開で終わりを見せる。それも「第四者視点」をうまいこと利用した形で、私を見る私がそうなっちゃうのか、というオチだ。この先も続いていくように余韻を残しながら、なんとなくの先行きを予感させる終わり方は二葉亭四迷の『浮雲』に通じる物がある。二葉亭四迷は好きなので今後もちょいちょい名前が出てくる事でしょう。

また、サイコホラー的な側面を見ると、『機械』の発表された1930年代は夢野久作やら江戸川乱歩やらがバリバリ活躍していた時期でもある。影響なのか流行なのか、納得できるような感じだ。

 

国語教育って何だ?

それにしても、教科書には何故『蠅』を載せているのだろうか。発表当時は斬新であっただろうし、萌芽であるが故に様々な解釈を許す点に広がりを期待しているのかも知れないが、実際、彼の作品の中では相当つまらない部類の作品である(他の作品が面白すぎるとも言える)。ページ数の都合等あるのかもしれないが、そういう都合で教材を決めるのではなく、その作者の面白い作品をちゃんと紹介して欲しいものだ。

文学だなんて有り難みのあるようなものではない。所詮当時の流行作品に過ぎない。だからこそ、当時面白かった作品が、いかに面白いかを感じさせてこそ国語教育ではないだろうか。

 

合わせて読みたい

ところで『機械』では、主人が大事な売上金をどっかに落としてくるというシーンがある。全く関係ないのだが、武家義理物語の五巻にある「大工が拾ふ曙のかね」の話を連想させる。どっかの金持ちが色々あって色々した結果お金を落としてしまう。それを拾った男の妻が、これを怪しみ、夫が犯罪者じゃないかと疑い……という話である。是非興味があったらフロンティア学院図書館で読んで頂きたい。そう、これは露骨な宣伝である。

井原西鶴『武家義理物語』 - フロンティア学院図書館