フロンティア学院

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正岡子規『歌よみに与ふる書』

描写力を磨くなら俳句をやりましょうという話をたまたま目にしました(これについては別途書くかもしれません)。
俳句と短歌は別物という話はちょっと置いておいて、これら短い文字数で物を語るメディアにはあまり興味がなかったので、とりあえず解説書っぽいものを自前の名著ブックリストから選びました。

世間で言われる名作の類をボロクソに叩いていくという、なかなかロックな内容でした。
図書カード:歌よみに与ふる書

入門書として

冒頭からいきなり実朝はスゴイ! だの定家はクソ! だの、皆もご存知のあの作品は~などと畳みかけられるので、予備知識が無いと理解できないやつかと身構えてしまうが、その心配はない。
ちゃんと悪い歌、良い歌を例に挙げて、それぞれ子規の持論を以て批評をしてくれる。
和歌集なんて縁のない生活をしていても、内容が理解できました。

昔学校で習った時にも、こんな風に、この短歌はここがクソ! みたいな授業だったら、きっと面白かったろうと思う。
ただし批評を真に受けてしまうのも危険なので、子規はこう言っているが、本当にそうだろうか? という視点も必要だろう。

評価は時代によって決定する

当時良いとされたものでも、現代の目で見ればそれほど良くないものもあるという。
その当時としては新しい言葉や、発想だったので絶讃されたが、今ではありふれた技術の一つになっているため、その部分を除くと実はたいしたことがない、といった感じだ。

たとえばインベーダーゲームは「攻撃をよける」「狙って撃つ」という要素が面白くて大ヒットした。しかしいまやシューティングゲームでは、それらの要素は当たり前となった。今インベーダーゲームを発売したら、大ヒットするだろうか?
レトロ性や、シンプルさを売りにすることで大ヒットさせることも可能かもしれない。
しかし、それはかつての大ヒット当時とは別の見方によるものであり、当時大ヒットしたものが永遠に素晴らしいというわけではない。

だから古いものをいつまでもありがたがるな、というのが子規の言う所である。
ただしインベーダーゲームの例で上げたとおり、古いものに新しい魅力を発見することも可能ではあろう。
いずれにせよ、過去のその時点での評価を盲目的に受け入れるべきではない。

新しさを受け入れる

さらに、我々は時に古いものを基準に新しい物を評価することがある。
しかし前項で挙げたとおり、古いものはその当時の新しいものだ。
だから、昔はそんなことはしなかったのでするべきではない、といった非難は無意味だというのだ。

もっとも、新しいものをただ取り入れても、子規の批判対象である一時の流行作品に終わってしまうので、そこは歌の本質を踏まえた取り入れ方をすべきである。

歌は感情を描写する

歌の本質とは何か? それは客観的かつ感情を描写するものであるべきだ、と考える。
おもしろいのは、さらに理屈をこねるな、と言っているところで、
「私一人のための秋ではないのに、秋が来ると悲しいなあ」
という和歌に対して、
「うるせーお前のためとかどうでもいい! 秋は悲しい! でOK」
「むしろ私一人のための秋だと思うぐらいの方がグッと来る」
とかボロクソに書いていて、言われてみればなるほど確かにと思える。

つまり、何かの事件で心を動かされたから歌を作るというわけで、その事件を描写することによって心の動きを伝えよ、ということだろう。

また、でかい嘘をつくのはいいが、ショボイ嘘で大げさに書くのはダサいぞって話も出てくる。このへん話作りの技法とも似通っていて面白い。


まとめると、以上は正岡子規が提示したひとつの短歌の読み方にすぎない。
しかし、明確な基準が示されているので、今後、和歌集なんかを読む時に「子規ならどう思うか」とか、彼なら批判しそうなのに自分にはいい歌に思えるがなぜだろう?といった読み方ができるようになる。
また、世間一般の読み方なんかと比べて、どっちの意見に共感できるか、なども考えることで、歌の楽しみ方、あるいは作り方、つまり描写の方法も分かってくるのではないだろうか。

敬遠していた和歌集についても、手を出してみようという気になりました。