『日本文学』1953年1月号を読む
二巻目に突入です。一巻は二冊しかありませんでしたが。
目次の紹介
『日本文学』1953年1月号
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nihonbungaku/2/1/_contents/-char/ja
- 特集 創造期の文学
- 益田 勝実『文学教育の問題点』
- 窓
- 櫻井 好朗『大会の感想』
- 湯山 厚『大会に出席して』
- 書評
- 窪田 章一郎『渡邉著「近代短歌史」』
- 1952年度秋季大会報告
以上は表紙の記述に基づいておりJ-STAGEのそれとは必ずしも一致しない。
4-1はWeb公開されていない。5は時代別に分割してWeb公開されている。
感想
こういった総合的なものを読んでいると自分の得手不得手が分かってくる。
これは知ってるっていうのが出てきたりとかで、このジャンル意外と知ってたんだなというのが出てくる。
逆もあり、俳諧なんかはぜんぜんわからなかった。西鶴が関係してるのに。
そういう振り返りというか、界隈の広さと自分の理解を再確認ができる楽しい通読。
今回は、創造とはなんぞやということで、このとき、どんな新しいものが作られているか、作られてほしいかにフォーカスが当たっている。
とはいえ67年前の論文なので古さは否めないが、現代に通じる点はあるように思う。
神道集の成立
神道集は日本の中世の説話集だが、収録された説話は元ネタがあるものも改変されて、地域に結びついたものになっているという。
その変化の理由を、民衆に普及させるためだったとしている。
仏教が天皇と大日如来を同一化したように、新しいものと元々あるものを融合させて受け入れさせる試みはしばしば行われている。
似ている例としては、古事記が同じ事をやっている。
大国主命が別名をいっぱい持っているのは各地に元々いた神を融合させたからで、そうやって一本化することで最終的にそういう神々から天皇が国を譲り受けたことを示しているという読み方ができる。
では神道集はそういった布教や支配のために改変されていったのか、この論文では別の見方をしている。
民衆に好まれる民衆目線寄りの話が、民衆達によって民間信仰に結び付けられて広まっていったというのだ。
それが「民衆による抵抗」だという。
これが本当に抵抗なのか、あるいは広める側の存在が迎合していったのかは議論の余地があると思うが、受け入れる側が身近なものに結び付けたということは確かにありそうだ。