中島敦『弟子』
みなさん『論語』は読んでいるでしょうか?
私は最近ようやく最後まで読んだのですが、以前、一部を読んだ時に感じた「クソジジイのたわごと集」というイメージは特に覆ることはありませんでした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card1738.html
そんなクソジジイの何がありがたいのか、弟子の子路を主人公として描いた作品である。
孔子と論語
中島敦の作品と言えば『山月記』『名人伝』が教科書にも載っていたが、大雑把に言ってしまえば、本当の強さとは何か? といったテーマであったと思う。
本作でも同様に、孔子が「強い人」として描かれている。彼の強さを示すエピソードが、論語のたわごとと関連させて次々と登場する。
孔子と子路
論語では子路はこれだからダメだなあ、みたいにオチで使われているので、孔子の学として見た場合、反面教師的なポジションにいて、あまり良い印象はなかった。
同じ弟子でも顔回がやたら誉められ、死んだ後にもひたすら歎き続けているのとは大違いである。
本作でも基本的に同じ事を書いてるが、それゆえに愛されているといった書き方になっている。
孔子と子路の学――姿勢は対立していても、そのため互いを補っているという関係だ。
この作品を元に論語を振り返ると、確かに、ボロクソに言われながらも師と仰ぎ続けた子路と、それを信頼する孔子いう二人の間には思想の違いを超えて通じるものがあったに違いない。
孔子の学を継ぐ者としての顔回との対比も考えると面白い。
何の為に死ぬのか
子路は史実のとおり、反乱に巻き込まれて死んでしまうのだが、彼の死は意味のある死だったのだろうか。
本作の途中で、身分の低い家臣が主君を諌めて殺された話について孔子が「己の死が相手に考える機会を作るなら意味があるが、ただ無駄に命を捨てることに意味はない」といった事を述べ、子路が反発する場面がある。
子路は「目の前の悪に目を背けて死を逃れた所で、何が正義だ」といった調子で、実際そのとおりに死んでしまう。
この話については、孔子の論だけを見れば個人的には誤りがあると思う。
まず、話題に上っている時点で「身分の低い家臣が愚かな主君を諌めた」ことは後世に伝わり教訓となっているため、人類全体にとっては無駄な死ではない。
「そうなることを確信した上での死」かどうかは怪しいが、それならたとえ近臣による死であっても怪しいものである。
平手政秀は、自らの死で織田信長が改心することをどれだけ確信していただろうか。
ゆえに、結果から言えば、孔子の論は正当なものではない。
しかし一方、論語では、孔子が同じ問いに対し、相手によって返答を変えることがある。
上記は弟子に対して「立派な死」を論じたものである。死に急がずに方法を考えようというのは、まさに弟子に対する愛情からの発言ではないだろうか。