海野十三『十八時の音楽浴』
覚醒剤にまつわる話が街を賑わせている昨今、得意げに「覚醒剤は用量・用法を守って使えば有益なものである。カフェインがそれである」などという、コーヒーだけに豆知識も耳に入ってくるが、真偽はさておき、その話を聞いて思いだしたのが海野十三の『十八時の音楽浴』である。内容は大体そんな話だ。
この作品には現代に通じる様々な未来が描かれている。
覚醒剤打たずにホームラン打とう
覚醒剤と言えば堂々と売られていたことでおなじみのヒロポンですが、その発売は1941年だそうだ。(Wikipediaより)
一方で『十八時の音楽浴』の発表は1937年である。副作用のある薬物と、その濫用を描いた作品という見方をすると、まるで文字通り未来を描いているようで水蜘蛛計画もビックリである。
とはいえ、濫用の結果ご想像通りの結末となるのだが、この音楽浴は用量・用法を守って使えば有益なものではあるようで、それを守っていたら人々は不平を抱きつつも、それなりに成果を上げて、おそらくはゆるやかに衰退していったのだと思える。もっともそれが幸福かどうかは別問題。
覚醒剤にせよ音楽浴にせよ、そんなものに世界や自分が支配されていてはいけないということだろう。あるいは仕事、勉強などに置き換えても同じ事が言えるかもしれない。
逆に堂々とできるキッカケになるかも
本作は「性」にまつわる諸問題も描いている。不倫浮気の類はそれこそ千年以上前から描かれているので格別新しいわけではないのだが、男性、女性、性転換、無性といった立場の人間関係が入り乱れるという点ではやはり未来を描いていると言える。性転換が社会的な話題となるのは1950年代であった(Wikipediaより)。昨今のオネエ系タレントなどは言うまでもない。
しかし、結局は男女(?)関係のもつれが全ての破綻につながっているというのは、この未来的すぎる設定に対して俗っぽすぎるように思える。精神を統制しすぎたが故に本能的な部分が明らかになるということだろうか。
もっとも、人々は未だにそういうことで争うし、全く理解のできない未来の理由で争われても困るから、納得は出来る。
夜空の向こうにはもう明日が待っている
本作が描く未来は現代である、という視点で話を進めてきたが、言い換えれば70~80年ぐらい先の未来を描いた、ということでもある。これをベタだとか古いとか言ってはいけない。時を経ることでそうなったのだ。傾向が似ている星新一でさえ、この30年後に登場している(Wikipediaより)。
物語はいくつかの事件を経て、最終的にハッピーであろう形に落ちつく。ディストピアは完璧なシステムで作られたユートピアに変わる。しかし、それは本当に理想郷なのだろうか。そもそも前提として描かれる音楽浴というシステムも一種の理想郷ではあった。
君主も、貴族も、民主政治も、生まれた当初は理想のシステムだったはずなのだ。しかしどれもやがては腐って世代交代していく。
完璧なものとして描かれた本作の結末は、やがてどうなっていくのだろうか。そして、それは当時から数えて90年、100年という未来、つまり今から10年20年先の未来でもある。
優れた未来予知者である海野十三の力が今こそ必要とされている。タイムマシンの開発を急ぎ、彼を現代に呼び出さなければならない。現代から見た、更に70年後の世界を予想することで悲劇を防ぐのだ。
でも、そうしたら本作の著作権はどうなるんだろう?