フロンティア学院

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カフカ『審判』

ドグラマグラを読んだらカフカを読もう。

図書カード:審判

大体、センセーショナルな煽りがついていてもミステリ三大奇書なんて所詮ミステリの奇書であり、アンチミステリというジャンルに入れ替えてしまえばそれまでのものだ。だけどアンチミステリはおもしろい。ルールは破ってこそ面白いのだ。

カフカの作品は、そういう作品とは全く違い、ルールは破らないし、そのルールも明かされない。小説のルールという大きい所は破っているかもしれない。何が起こっているのかもよく分からないし、何を信じたらよいのかも分からない。そう言う意味で、カフカの作品はよっぽど奇書と言える。

優しい気持ちで読む物語

カフカの作品は不条理な世界の仕組みに主人公がなすすべもなく振り回される話だと聞いた事がある。物語の歴史は主人公の弱体化である、という説を昔聞いたことがあり、今のところその終着点がカフカの作品だという。*1

それで『変身』は割と納得できたのだが、『審判』は、結果的には振り回されるにしても主人公が随分アクティブに物事を動かしていくし、思った程不条理でも無い。むしろ、心が疲れてしまった人(このブログでは過激な表記を控えています)を丁寧に描いているように思えた。そう言う意味で弱い主人公とは言えるかもしれない。サナトリウム文学の主人公が病人であったように。

カフカの心は疲れていたか

『審判』を読み終えると、僕は真っ先に作品名と病名でgoogle先生にお伺いを立てた。普通に感想を探しても、皆まっとうな感想文しか書いていなかったからだ。すると、カフカは心が疲れてしまった人だったのではないか? という説がヒットした。しかし、これは違うように思える。

確かに、作中では大変リアルに心が疲れた様子を描写している。だが、作者自身が疲れていたなら、それほど丁寧な描写ができただろうか? そういう人達の書いた文書はインターネットばかりでなく、大学や選挙広報でも見る事ができるが、それとは明らかに性質が違う。翻訳でもあり、編者の手が入ってしまったからとも考えられるが、そうではないと言いたい。

本当に疲れていたなら、その疲れを自覚したかのような描写はできないのだ。井の中の蛙が「井の中の蛙」を描くことができないように。

分からないものは想像力をかきたてる

カフカの作品はよくわからない。これは心が疲れた人を描いてるんだな! と片付けてしまっても、それはそれで本物を感じさせる内容なので面白いのだが、よくわからないがゆえに、読む人はついつい、これは何かの比喩では? などと考えてしまう。

たとえば、『審判』とはいわゆる最後の審判を示しているのではないか? 作者がユダヤ人であるという事実はさておき、人はそもそも生まれながらに罪人であり、常に審理にかけられていることを示しているのではないか。

あるいは『審判』とは「周囲の評価」であり「空気」のようなものではないか? 空気の読めない主人公が段々と孤立していく、そんな読み方もできる。実際主人公はあまり応援したくなるようなイイ奴ではないのだ。

または主人公は実際に罪人であり、何か後ろめたい部分を持っているのではないか? そういえば、隣室の女性はいつの間にかいなくなっているし、教会で救いを請うような場面もあるぞ。そもそも登場人物のうち、実在しているのは誰だ? そうなると途端にホラーじみた内容にも見えてくる。

そうして突き詰めると、やっぱり心が疲れてしまった人を描いているんだな、というところに戻ってきたりもする。

こんな風に解釈がいくらでもできる。カフカに関するまっとうな感想文のほとんどは、そういった読み方をしているようだ。皆さんもぜひ、新しい解釈に挑戦してみてはどうだろうか。

本当に分からないものは受け入れられない

物語を作る時のコツとして、読者の世界に近いものを描いておいて、少し違ったことを描くことで興味を湧かせるといったやりかたがある。誰が言っていたかは忘れてしまった。

つまり、安心できる場所に少しの異物があると、そこに興味が集中してしまうというわけで、これが何もかもすべて異質な世界になると、読者は受け入れることができなくなってしまうというわけでもある。

カフカの作品はよくわからないが、拒絶してしまうほどではなく、ちょっと手を伸ばせば届きそうなほどのわからなさで、しかし手が届かないというなかなかのバランスで成り立っている。

ファンタジーのお手本としてもいかがだろうか?

いや、この作品から夢を広げるのはちょっとつらいな。

*1:調べた所、ノースロップ・フライによる分類がそれらしい。http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-124.html が分かりやすい。