フロンティア学院

パブリックドメインから世界をめざす

木綿以前の事

自分が「言語学」というものに興味を持った理由の一つに、男性器の俗称に関する由来の話がある。簡単に言うと、小さい→ちんこい、というもので、昨今話題の春画展などに行けば分かるとおり男性器は「大きい」ものなのだが、おちんちんと言えば通常子供のそれを示す通り、子供のものであるから比較として「小さい」のだろう。

不要な下ネタは避ける方針の当ブログで突然下ネタを展開してしまったが、このように言葉が作られていく過程が面白くて「言語学」を学んでみたい、そう考えた私は文学部へと進学した。

 

しかし現実とは非情なもので、大学での言語学の講義は「大阪でアンケートを採ったらX割の人が関西弁に親しみを感じると答えた。関西弁は親しみやすい言語である」などという謎の内容で、レポートに「東京でアンケートは採らないのでしょうか」とか書いていたら恥ずかしい低得点を付けられてしまった。

今思えば現地の言葉は親しみやすい、という研究だったのかもしれないし、現代の言語を研究していたのかもしれないが、なんにせよ「言語学」というものには興味を失ってしまい、その後近世文学を専攻するに至った(続きは前回の記事で)。

 

そして長い時が流れ、つい先日柳田国男の作品を読んだ。『木綿以前の事』である。

図書カード:木綿以前の事

 民俗学というものは民話とか伝承をどうこうするような、なんだか泥臭い学問というイメージを持っていて、今ひとつ興味が無かった。昨年の日記のコメント欄でも堂々とあまり知らないと言っている。事実、柳田国男と言えば鉄腕アトムのなんかのエピソードで名前が出てきた人か、民間伝承を集めてる奇特な人ぐらいの認識だったのだ。

ところが『木綿以前の事』はどうも違う。木綿の服が流行り始めたのはつい最近で、それ以前は何を着ていたのか……みたいな話から始まって、各地に残る言葉や習慣、あるいは芸術から当時の文化の源流を辿っていこうという話である。おや、これはどこかで聞いたような話だぞ。「元は何であったか?」を調べる事は、今あるものの成り立ちを知るという事だ。かつて自分が面白いと思った世界がそこに広がっていたのだ。食わず嫌いをしていた「民俗学」こそが、本当は求めていた学問ではないか。

そんなわけでまさに今、民俗学関連の書を読みあさっているのだが、幸い青空文庫でも比較的ラインナップの多い分野であり全然読み切れていない。本当に敬遠していた分野なので何を読んでも面白いのだが『日本の伝説』なんかは子供向けなこともあり分かりやすい。

図書カード:日本の伝説

全く関係のなさそうなものが根っこで繋がっていくところが面白くも不思議であり、それを調べるために各種古典や論文が引用され、これ自体が一種のブックガイドにもなっている。しかもそれらの文献は国立国会図書館デジタルコレクションで読めるものもある。もはや家から一歩も出ずに永遠に楽しむ事ができそうだ。

 

さて、唐突に冒頭の話題に戻るが、我々男性としては、いくら子供のものとはいえ、その象徴たる存在を「小さい」などと表現されて良いのだろうか。ここに別説を掲げようではないか。

例えば「チン」を「テイム」の訛ったものと考える。「手忌む」と書けばいかにもありそうだ。意味は推して知るべしだ。早速ググったが、資料の電子化が進んでいない日本では用例を見つける事が出来なかった。あるいはポルトガル語のcincoが語源ではなかろうか。何が五つあるのかは資料の電子化が進んでいない日本では調査が出来ず不明である。今後の研究課題としたい。

 

というわけで、面白いものは共有されるべきと考えるので、今後こうしたぬるい感想文も時々書いていこうと考えております。よろしくお願いします。