フロンティア学院

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中国古典『痲瘋女邱麗玉』が描く「群集心理」の暴走と、因習村からの脱出

清朝末期に書かれた『夜雨秋灯録(やうしゅうとうろく)』の第三巻五話「痲瘋女邱麗玉(まふうじょ きゅうれいぎょく)」を読んでいきます。

kakuyomu.jp


みなさんは、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが書いた『群衆心理』という著作をご存知でしょうか?
彼はこう言いました。
「個人としては理性的で知的な人間も、集団(群集)の一部になると、衝動的で残忍な行動をとるようになる」と。

現代のSNS炎上や、パンデミック時の買い占め騒動なんか、身近に経験した人も多いですよね。
実は、19世紀の中国にも、この「群集心理の恐怖」を、中国小説のフォーマットで痛烈に描いた傑作があります。

それが、この「痲瘋女邱麗玉(まふうじょ きゅうれいぎょく)」です。
今回は、ハンセン病という業病をテーマに、「狂った社会で正気を保つこと」の難しさを描いた物語を紹介しましょう。

レビューだけでも読みごたえがある。

最悪の風習「売麻風(マイマフォン)」

当時、中国の一部(広東・広西など)には、「過癩(グオライ)」や「売麻風(マイマフォン)」という迷信が実際にありました。
これは、「ハンセン病の女性が、健康な男性と関係を持てば、毒が相手に移って自分の病気は治る」というものです。
「風邪は移せば治る」の最悪バージョンであり、娘を救うために無関係な他人に毒を押し付けるという、究極のエゴイズムがこの物語の前提にあります。

今回のあらすじ

物語は、残酷な現実と、後半の怒涛の展開が見どころです。

  1. 孤独な旅人
    • 主人公の陳生(ちんせい)は、継母にいじめられ家出中。一文無しで放浪していました。
  2. 甘い罠
    • ある日、親切な老人の手引きで、陳生は地元の富豪・邱(きゅう)家の入り婿になります。
    • 相手は絶世の美女・麗玉(れいぎょく)。夢のような逆玉の輿です。
  3. 初夜の告白と「禁欲」
    • しかし初夜、彼女は涙ながらに真実を告げます。
    • 「私はハンセン病なの。両親はあなたに病気を移して、私を治そうとしている。3日間だけ夫婦のふりをして、手を出さずに逃げて」
    • 陳生は彼女の願いを聞き入れ、3日間、指一本触れずに「毒移し」が行われたフリを続けました。
  4. 脱出と「隠匿生活」
    • 両親は「毒は移った」と信じて二人を追い出します。
    • しかし陳生は彼女を見捨てませんでした。
    • 彼女をこっそり船に乗せて自分の故郷へ連れ帰ると、世間から隠すために自宅の酒蔵の甕(かめ)の隙間に彼女を住まわせ、一人で看病を続ける「極秘の同棲生活」を始めたのです。

不条理文学の先駆け

この物語が単なる怪談を超えて「傑作」と評される理由。*1
それは、「巨大な不条理」に直面した時、人間はどう壊れ、どう抗うのかという、東西の名作文学に通じる普遍的なテーマを描ききっているからです。

① カミュ『ペスト』との共鳴:システムという怪物

アルベール・カミュの『ペスト』では、疫病による封鎖という極限状態の中で、スケープゴートを探す群衆や、見て見ぬふりをする市民の姿が描かれました。
この中国の物語における「両親」は、まさに『ペスト』的なパニックに陥った群衆そのものです。

彼らは決して根っからの悪人ではありません。
娘を愛しているからこそ、恐怖に負け、「よそ者(陳生)を犠牲にして、自分たちの平穏を取り戻そう」という集団のエゴに飲み込まれました。
個人の悪意ではなく、「システム(因習)の論理で人が切り捨てられる」という描写は、現代の私たちがパンデミックで目撃した「正気の崩壊」と恐ろしいほど重なります。

② 上田秋成『雨月物語』との対比:「情念」か「非情」か

「幽霊より人間が怖い」というテーマでは、日本の古典怪談の金字塔・上田秋成の『雨月物語』も共通しています。
しかし、その「怖さの質」は対照的です。

  • 日本(秋成)の怖さ=「情念(ウェット)」
    • 『雨月物語』の「吉備津の釜」のように、日本的な恐怖は「愛や執着が強すぎること」から生まれます。
    • 情が深すぎるがゆえに、人は化け物(怨霊)になるのです。
  • 本作(中国)の怖さ=「非情(ドライ)」
    • この物語の親たちは、「家を守る」「自分が助かる」という実利のために、事務的に娘を騙して捨てます。
    • そこには恨みも愛憎もなく、ただ「冷徹な計算」があるだけです。

戦乱や疫病といった「不条理」を前にした時、日本文学は「情念の怪物」を生み出し、この中国文学は「非情なシステム」という怪物を見出しました。
「湿度の高い恐怖」と「乾いた残酷さ」。
この二つの視点を持つことで、この物語の「人間という生き物の業」がより立体的に浮かび上がってきます。

物語の結末

嘘つきは誰だ? 痛快なる「親への復讐」

物語の最後、病が治り、科挙に合格して高官となった陳生は、かつて自分たちを捨てた義父(邱翁)を呼び出します。
ここで陳生は、あえて何も知らないふりをして「私の妻(あなたの娘)はどこですか? 会いたい」と問い詰めます。

父親は焦ります。娘をハンセン病療養所という「死に場所」へ捨ててしまったからです。
そこで父親は、保身のために嘘をつきます。
「娘はとっくに死にました。運が悪かったのです」

陳生はこの嘘を冷ややかに聞き届けた後、生きている娘(麗玉)をド派手な正装で登場させます。
「死んだはずの娘」を目の前にして、父親は腰を抜かし、恥じ入って言葉を失います。

これは、単なる意地悪ではありません。
「あなたは娘を『死んだもの』として捨てたが、私たちがその命を拾って再生させたのだ」
という事実を突きつける、強烈な皮肉と勝利宣言です。

儒教の教えで親を殴ることはできませんが「恥をかかせる(メンツを潰す)」ことで、彼らは因習にまみれた親への最大の復讐を果たしたのです。

「人を犠牲にしなければ助からない」という親たちの狂った常識を、「誰も犠牲にせず生き残った」という事実で粉砕する。
それこそが、彼らが成し遂げた最大の復讐であり、新しい倫理の確立でした。

「いのちの初夜」の向こう側へ

『痲瘋女邱麗玉』は、ハッピーエンドで幕を閉じる「奇跡の物語」です。
しかし、現実の世界では、甕の中で震えていたヒロインのように、奇跡が起きず、暗闇の中で呻吟した人々が無数にいました。
差別的な扱いを受けていた歴史もあり、いつものノリでやってますが割とセンシティブな話題でもあります。

もし、この物語の「ファンタジー」を剥ぎ取り、その内側にあったはずの「本当の絶望と、そこから生まれる魂の輝き」を知りたい方には、日本の作家・北條民雄の『いのちの初夜』をおすすめします。

自身もハンセン病を患い、23歳で夭折した彼が描く、「人間でなくなる夜」の壮絶な記録。
中国の古典が描いた「外側の社会との戦い」と、北條民雄が描いた「内なる絶望との戦い」。この二つを併せて読むことで、初めて見えてくる「人間の尊厳」があるはずです。

*1:夜雨秋灯録の中でも人気で舞台化などされてるらしい