清朝末期に書かれた『夜雨秋灯録(やうしゅうとうろく)』の第三巻四話「珊珊(さんさん)」を読んでいきます。
みなさん、「異類婚姻譚(いるいこんいんたん)」は好きですよね。
助けた鶴が機を織ったり、亀を助けて竜宮城へ行ったり。
日本の昔話だと、どこか情緒的で、最後は「見るなのタブー」を破って儚く別れる……というパターンがお約束。
ですが、中国の古典は一味違います。
ここには、儚い情緒よりも、もっと骨太で、時に血なまぐさい「契約と倫理」の世界が広がっています。
夫がクズすぎて破局し、復縁のために夫が自ら指を詰め、最後は人間社会に見切りをつける。
そんな、ハードボイルドな虎の妻の物語を読み解いていきましょう。
「呼び名」で通ぶる! 中国古典の基礎知識
物語に入る前に、ちょっとした豆知識。
中国の古典小説を読んでいると、「〇〇生」や「〇〇姑」といった呼び方が頻出します。
これ、現代風に訳すとどういうニュアンスかご存知ですか?
これを知っておくだけで、登場人物の距離感がグッと掴みやすくなります。
〇生(例:焦生)
- 読み:〇〇せい(例:しょうせい)
- 意味:「〇〇君」「〇〇青年」
- 「生」は書生(学生)の意味。物語では、若い知識人男性への軽い敬称として使われます。この物語の主人公・焦(しょう)も、「焦の若旦那」といった雰囲気です。
〇姑(例:苗姑)
- 読み:〇〇こ(例:びょうこ)
- 意味:「〇〇家の娘」「お〇〇」
- 「姑」はオバサンではなく、未婚の女性や尊敬する女性を指します。ヒロインの珊珊は苗(びょう)という家の娘なので、世間からは「苗姑」と呼ばれています。
〇娘(例:窈娘)
- 読み:〇〇じょう(例:ようじょう)
- 意味:「〇〇嬢」「お〇〇」
- こちらも若い女性や、芸妓・側室などに使われます。本作の悪役である愛人・窈(よう)は「窈娘」と呼ばれます。
「焦生(焦君)」と「苗姑(苗家の娘)」、そして愛人の「窈娘(お窈)」。
この三者の呼び名が分かったところで、泥沼のストーリーを見ていきましょう。
恩を仇で返した男の末路
物語は、主人公・焦生(しょうせい)が、見世物小屋で虐待されていた虎を買い取り、山へ逃がしてやることから始まります。
その夜、夢に虎の精が現れ、「恩返しに娘を嫁にやろう」と告げられます。
- 【理想の結婚】
- 山奥を訪ねた焦生は、虎の娘・珊珊(さんさん)と結ばれます。
- 彼女は人間離れした美貌と賢さを持ち、家事も完璧。
- 【夫の増長】
- 珊珊の内助の功で、焦生は科挙に合格し高官になります。
- しかし、出世した途端に彼は増長。窈娘(ようじょう)という妖艶な愛人を囲い始めます。
- 【家庭崩壊】
- 愛人の窈娘は、正妻である珊珊を追い落とそうと画策。毒を盛ったり呪いをかけたりします。
- 焦生はあろうことか愛人の肩を持ち、無実の珊珊を鞭で打ち据え、家から追い出してしまいます。
- 【因果応報】
- 守り神がいなくなった焦生は転落一直線。
- 汚職で告発され、愛人には財産を持ち逃げされ、流刑囚としてボロボロに。
- 護送中、かつて虎を助けた山道で、意地悪な役人に殺されそうになりますが……。
そこで現れたのは、巨大な白額の虎。
かつて追い出した妻、珊珊の真の姿でした。
なぜ夫は「指」を詰めたのか?
虎(珊珊)に命を救われた焦生。
しかし、再会した珊珊は虎の姿のまま、冷ややかに問います。
「私の正体が獣だと知っても、あなたはまだ私を疑いますか?(また裏切るのですか?)」
ここで焦生は言葉で言い訳する代わりに、刀を抜き、自分の親指を切り落として、鮮血で愛と悔悟を証明したのです。
どうにも「ヤクザ映画か!」とツッコミたくなりますが、これには深い意味があります。
「情」ではなく「義」の物語
中国の仏教説話に、禅宗の祖・達磨(ダルマ)大師に弟子入りするため、僧・慧可(えか)が自分の左腕を切り落として覚悟を見せた「雪中断臂(せっちゅうだんぴ)」というエピソードがあります。
中国の古典的な倫理観において、身体の欠損を伴う行為は、言葉だけでは信用されない時の究極の自己証明を意味します。
焦生は「復縁したい」と甘えたわけではありません。
「次は命をかけて裏切らない」という「信(まこと)」を、身体を張って証明したのです。
一方の珊珊も、「夫が好きだから」という単純な「情」ではなく、「義(受けた恩は必ず返す)」という論理で動いています。
「かつて父(虎)を助けてくれた大恩ある人だから、彼がどんなに落ちぶれても、見捨てることは不義になる」
この徹底した倫理観こそが、彼女の「虎としての気高さ」なのです。
二人の関係は、甘いロマンスというより、血と覚悟で結ばれた「仁義」の世界に近いのです。
結末と考察:人間よりも人間らしい「獣」
指を詰めて和解した二人は、人里離れた石の洞窟で、自給自足の生活を始めます。
かつてのエリート官僚だった焦生は、出世欲を捨て、虎の一族と共に生きる道を選びました。
やがて生まれた息子の名は「寅生(いんせい)」*1。
彼は後に人間の世界へ戻り高官となりますが、両親が人里に降りることは二度とありませんでした。
物語の冒頭、焦生の友人は冗談めかして有名な詩*2を引用し、虎のことを「封使君(封という殿様)」と呼びました。
しかし物語を読み終えた時、私たちは気づかされます。
欲にまみれて恩を忘れる人間(官僚)よりも、恩義を重んじ、質素に暮らす虎の方が、よほど「使君(立派な君子)」の名にふさわしかったのではないか、と。
まとめ
子曰く、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」
(孔子は言った。立派な人物は「それが正しい道か(義)」を行動基準にするが、つまらない人間は「それが自分の得になるか(利)」を行動基準にする、と)
唐突に儒教。しかし、この物語の構造は、まさにこれです。
夫の焦生は、出世や愛欲という「利」で動く「小人(しょうじん)」でした。
対して、妻の珊珊は、一度受けた恩を何があっても返すという「義」で動く「君子(くんし)」でした。
珊珊が夫にあそこまで手厚く、寛容だったのは、彼女が「甘い妻」だったからではありません。
彼女が人間よりもはるかに気高く、「義」を貫く獣(君子)だったからです。
「見た目は獣でも心は君子。見た目は人でも心は獣」
『珊珊』という物語は、人間の皮を被った私たちの心に、「お前は本当に人間(君子)か?」と問いかけてくるような気がします。