清朝末期に書かれた『夜雨秋灯録(やうしゅうとうろく)』の第一巻十五話「奚大瘤(けいだいりゅう)」を読んでいきます。
中国の古典怪奇小説と聞くと、どんなイメージがありますか?
この話は、「これ落語の『頭山』?」「いや『Dr.スランプ』やんけ!」とハチャメチャが押し寄せる展開。しかも道教の仙人が大活躍するのに実は考えオチのバリバリ仏教説話という内容。
今回は、この泣いてる場合じゃない哲学的な物語をご紹介します。
始まりは「頭山」的な身体ホラー
主人公の奚(けい)は、貧しく醜く太っており、おまけに腰に巨大な瘤(こぶ)までできてしまった男です。甕よりもでかいコブってどんだけやねん。
絶望して自殺しようとしたところを、通りがかりの道士(仙人)に止められ、「死ぬ気があるなら修行して仙人になれ」とスカウトされます。
山籠りの修行を始めた彼ですが、数日経つと、なんと自分の身体の穴という穴から、小さな美女たちが飛び出してくるのです。
目からは「秋水」、耳からは「双珠」、鼻からは「玉峰」……。
彼女たちは奚の巨大な「瘤」を「新築のいい家」と呼び、勝手に住み着いて宴会を始めます。
自分の身体の一部が、他人の宴会場になってしまう。
このシュールな状況は、頭の上に桜が生えて花見会場になる落語の『頭山』そのもの。自分の身体が自分のものでなくなる、奇妙な感覚です。
「六賊」という仏教的メタファー
さて、この美女たちは何者なのでしょうか?
彼女たちは6人姉妹。そして、目・耳・鼻・舌・身・意(心)から出てきました。
勘のいい方はお気づきでしょう。これは仏教で言う「六賊」の擬人化です。
- 眼(視覚):芝居を見せて誘惑する
- 耳(聴覚):音楽で誘惑する
- 鼻(嗅覚):香りで誘惑する
- 舌(味覚):美食で誘惑する
- 身(触覚):乗り物に変身して快適さを提供する
- 意(意識):瞬時に名所旧跡へと思考を飛ばす
修行中の奚は、この「感覚の快楽」に勝てず、彼女たちと瘤の中で愛し合い、子供まで作ってしまいます。
結果、瘤はさらに巨大化し、彼女たちは「家が手狭だから、奚を殺して新しい家を建てよう」と相談し始める始末。
「煩悩に身を滅ぼす」を、物理的なホラーとして描いているのです。
仙術で「アラレちゃん」化する男
絶体絶命の奚を救ったのは、あの道士でした。
道士は剣を抜き、なんと奚の首をスパーン!と切り落とします。
首の断面から六賊が白い煙となって出ていき、道士は何食わぬ顔で首を元に戻します。
ここからがこの物語の真骨頂。
悪いものが抜けた奚は、「首の脱着が可能」な特異体質になって里に帰ります。
彼は酒場で酔っ払うと、自分の頭をスポンと外してテーブルに置くという宴会芸を披露して人々を脅かします。
まさに『Dr.スランプ アラレちゃん』の世界!
仙人になるための修行をした結果が、「首外し芸人」とは……。
中国の仙境譚における身体の扱いは、現代のギャグ漫画並みにドライでポップなのです。
衝撃のラスト:借り物の顔と「悟り」
しかし、調子に乗っていた彼はしっぺ返しを食らいます。
店員に自分の頭を肥溜めに捨てられてしまったのです。
頭を失って暴れる奚の胴体。そこにまた道士が現れ、「汚れた頭はもう使えん」と言って、代わりに「死んだばかりの美男子の首」を持ってきてくっつけてくれました。
念願のイケメンになれた奚。しかし、物語はハッピーエンドでは終わりません。
美男子の顔で歩いていた彼は、ある従者に出会います。
従者は彼を見て「若様! こんなところにいらしたのですか!」と駆け寄ります。
その瞬間、奚は何も言わずに川へ飛び込みました。
そして、そのまま龍に乗って天へ昇り、姿を消したのです。
なぜ彼は逃げたのか?
ここは読者の想像に委ねられていますが、おそらく彼は強烈な「恥」と「虚無」を感じたのではないでしょうか。
- 死んだイケメンにも慕う周囲の者があったのだという思い。
- 今の自分が称賛されたとして、中身の「奚」ではなく、借り物の「美貌」のおかげでしかない。
- 自分という存在(自我)は、誰かの不幸によって成り立っているのだ。
「若様」と呼ばれたその瞬間、このようなことを考えて恥ずかしく、また虚しくもなったのでしょう。
彼は俗世に対する執着が完全に消え去るのを感じ、本当の意味で解脱(人間を卒業)したのかもしれません。
まとめ:笑いとグロテスクの向こう側
物語の最後、評者*1は「瘤は、頭を切り落とせば(死ねば)治る」と皮肉っぽく語ります。
周囲の者はそれを(当たり前だと)笑ったとありますが、コブを「執着」と考えると、意味が変わる気がしますね。
『夜雨秋灯録』の「奚大瘤」は、
- 落語的な不条理で笑わせ、
- 身体改造的なギミックで驚かせ、
- 最後は「自己とは何か」という哲学的な問いを残して終わります。
「昔の中国の小説なんて難しそう」と思っている方こそ、このパンクでロックな「悟り」の物語、ぜひ原典や翻訳で味わってみてください。常識の「首」がすげ変わるような体験ができるかもしれませんよ。
※注:本記事は古典文学の紹介であり、実際の医療行為や危険行為を推奨するものではありません。首は大切に。
*1:評者の懊儂氏とは作者の事らしい