『日本文学』1953年2月号を読む
目次の紹介
『日本文学』1953年2月号
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nihonbungaku/2/2/_contents/-char/ja
- 益田 勝実『サークルにおける古代文学研究』
- 桐原 徳重『文学としての平家物語』
- 吉田 孝次郎『《文学教室》教科書と「三四郎」』
- 広橋 一男『高等学校国語科教科書批判――平和教育のために――』
- 野木 秀雄『入試問題と国語教育』
- 杉浦 明平『《文学時評》喜劇と悲劇』
- 渡瀬 昌忠『今日の短歌の問題――啄木と茂吉のうけつぎ――』
- 窓
- 井村 昭快
- さとう のり子
以上は表紙の記述に基づいておりJ-STAGEのそれとは必ずしも一致しない。
6はWeb公開されていない。
2・3月合併号となっているが、4月号も出ていないので、実質2~4月号である。
感想
まだ三号しか読んでないのに見たことある名前が出てきて面白い。時代の流れが分かる感じ。
それだけ世界が狭いのかもしれない。
しかし、そういう見たことある名前ほどWeb非公開となっているのは残念。
サークルにおける古代文学研究
サークル活動のありかたを教えてくれる。これは面白い。
ここでいうサークルは在野研究でもあり同人サークルでもあり、結局そのへん根っこは同じなんだと思わせてもくれる。
テーマを決めて計画的にやろう!とか、飽きたらレクリエーションをやろう!とか機関紙を作ろう!とか、そりゃそうだよなって思える。
あとはサークルは専門家に劣るのか?という疑問に、むしろ素人の眼から掘り下げた方が面白いこともある、とか、このへんは在野研究ビギナーズなんかに通じる話。
そして素人が本質を見つけることこそ民衆による抵抗であるみたいなそんな話はしてないか。
ところで、古代を研究するにあたり、まずは現代の問題を踏まえて溯った方が良いという指摘は納得できる。
問題が明確か、あるいは全く曖昧なら現代を見据えてから辿っていく方が有用な発想に至ることができるだろう。
歴史も現代から辿るべきかは、現代の原型を縄文時代に求めるとかやるとちょっと歴史教育の意味合いが変わってくるような気がするので、場合によると思う。
この企画も歴史を追いかけているので、過去から順番に見ているわけです。
文学としての平家物語
平家物語には原型があり、それに改変されて現在の姿になったということを前提に、その改変が原型の魅力を減じているという説。
原型はむしろ民衆の抵抗から生まれた内容であったのに、女性に関するエピソードや仏教思想を入れるなど貴族的な抵抗の視点で改変されたのだという。
それでも普及して現在に伝わっていることを考え、この説を正とするなら、むしろ両者の抵抗が入り交じったことで面白み・価値が高まったとのだと思う。
時代が「民衆の抵抗」をテーマとしているために、貴族の介入によって魅力が減じているという結論となったのだろうが、様々な立場からの改変が行われたことが多様性の面で優れた文学となったのではないだろうか。
民衆的じゃないものはダメだ!みたいな空気が強かった時代なんだなと思う。
ただ、きっと誰かがやってるんだろうけど、そういう後世追加された的な要素を削っていった「再現!原型平家物語」みたいなのは見てみたい。本当に民衆的なものなんだろうか。
高等学校国語科教科書批判
教科書に取りあげてる作品がぜんぜん教育に即してないやんけみたいな批判。
だいたいこんな感じ。
技術は人間形成に結びつかないというのは、「もっと役に立つことを教えろ」とする人たちへのカウンターにはなりそう。人間形成ってなんやねんというところもあるが。
ただ日常生活で身に付けられるから教えなくていいよっていうのは違う気がする。技術だけでも教えて欲しかったことはいっぱいある。税金の納め方とか。
平和教育については、まあわかるし、与謝野晶子とかは今時は入ってる。ただ悲しい昔話ばかり聞かされて平和教育なのか?とも思う。
被爆者のグロ画像見せられてこんな戦争はダメです!と言われてもグロ画像のことしか覚えてないし、なんならモーターサイクルwwwwとかいって侮辱してたから平和がぜんぜん教育できてない。
ロシア文学は調べたところ未だにあんまり採用されていない。というか翻訳があんまり入ってないみたい。
ロシア文学は日本近代文学の実質元ネタなので、伝統という点では入っていいと思う。
なので、ここはぜひゴーゴリの『外套』を入れて欲しい。横光の『蠅』が入るならいけるでしょう。
ぼくは『外套』すごく好きです。胸糞悪いところがたまらんです。