フロンティア学院

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『日本文学』1952年12月号を読む

最初に気づけよって話なんですけど、週一ペースで続けると15年、毎日続けても2年半ぐらいかかりますねこの企画。
実は『知的トレーニングの技術』で通読の必要性を説かれていたことから出発しているネタなんですけど、時代を追っていくことで15年後には少しは頭が良くなってるはずです。
www.hanmoto.com
まずは続けていきましょう。

目次の紹介

『日本文学』1952年12月号
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nihonbungaku/1/2/_contents/-char/ja

  1. 西郷 信綱『天皇と文学』
  2. 瀬尾 芙己子『「近松の抵抗」について』
  3. 森山 重雄『文学教室「大晦日はあはぬ算用」』
  4. 研究ノート
    1. 久松 潜一『定家の歌論について』
    2. 重友 毅『近松の義理・人情について』
  5. 伊豆 利彦『「ハコネ用水」について』
  6. 林 一夫『国語教育の癌』
    1. 杉田 英一
    2. 服部 千代子
    3. 岡 ちえ子
    4. 赤路 勝
  7. 支部めぐり
  8. 林 尚男『書評「静かなる山々」』
  9. 研究会の動き

以上は表紙の記述に基づいておりJ-STAGEのそれとは必ずしも一致しない。
1、4-1はWeb公開されていない。

感想

前号掲載の広末保(の論説)に言及する、ちょっとした近世文学特集になっている。
そのためもあり「封建制への民衆の抵抗」が引き続きキーワードといえる。
創作の原動力は批判精神であるみたいなところは、ロックやヒップホップの源流からそういうのもあるよねと理解はできる。
ぼくは楽しんで創作活動をしてるので別に関係ないです、みたいな事を言っても仕方ないので、たとえば同人活動のムーブメントは商業活動に対する抵抗なのではないかみたいな問題提起とかができそうっていうか、ありそう。

文学教室「大晦日はあはぬ算用」

「すぐれた文学は民衆の権力への抵抗を描いている」という前提の元、広末保が言及した(らしい)近松作品だけでなく、西鶴作品もそれを描いているとの主張。
ある作品・作家に対して適用した理論を別のものにも適用するという形式。
面白いのは「あはぬ算用」というタイトルと「義理」というサブタイトル(?)とを比較し、義理をテーマにしているのに結局計算が合わないというオチは何故かと考えている点。
この論文によれば、計算が合わないようなことのある世の中を、民衆が義理によって助け合っていた、それはつまり社会に対する民衆の抵抗であるという。
確かに、西鶴作品にはこういう矛盾というか皮肉的な表現が時々ある。
うちの『武家義理物語』の話でも、それでいいのかよという話を取りあげた。
「民衆の抵抗」だったかどうかはともかく、そこには当時の読者を面白がらせた仕掛けが隠されているように思う。
西鶴の謎表現研究は定番テーマなので、時代による変遷があるのか、楽しんでいきたい。

国語教育の癌

癌とまで言い切るほど知識人の国語教育への関心は実際に薄かったのだろうか。
問題として、大学入試について、出題者の専門分野に偏った作問、解答が曖昧な作問、暗記力を問うような作問が挙げられ、教育が教育への関心がないことを指摘している。
確かに自分はそういう教育を受けてきた覚えがあるので、この癌は完治していないらしい。
そのうえで、指導要領を理解した上で出題者の独りよがりではない適切な作問を行ってくれという主張がされている。
近年の教育事情はハッキリ言って知らないが、学校のテストで模範解答通りじゃないと減点みたいな話は未だに聞く。
指導要領自体が悪いのか、出題者が悪いのか、教育者が悪いのか。
センター試験みたく出題者の統合が行われても、なお指摘された問題に共感できるということに闇を感じる。
それでも数十年の蓄積はあるわけで、どんな提案や解決策が試みられてきたかは追いかけていきたい。