井原西鶴って本当に人気だったの?
井原西鶴について、ちょっと調べていた。
実は平家物語が好きすぎてロボットファンタジー小説を書いていたのだが、好きすぎるあまり色々調べ始めてしまってどうにもならなくなってきたので、少し寄り道したのだ。
小説も面白いから、ぜひ読んで欲しい。
novelup.plus
それはさておき、世の中の大前提として、井原西鶴は有名な人気作家とされている。
しかし、それは教科書に載っているからとか、明治に再評価されたからといった具合で、本当に当時から人気作家だったのかはイマイチ見えてこない。
専門家にとっては常識だろうが、その真偽について、ネットで調べてみよう。
なお結論としては西鶴は当時も人気だったと考えられる。
それを裏付けるためにどんなアプローチが取られていたのかを紹介していこう。
そもそも本は読まれていたのか
町民や遊女が読書をしていた
いきなり孫引きになるが『日本における読書画像と読書史』の参照元の読書論が、定説と言えそうではある。
江戸時代には庶民の間でも比較的高い識字率が達成されていた。貸本屋が発達し,一般の町民や遊女の間にも娯楽としての読書が普及した。上流階級では男女を問わず古典の読解およびそれを歌作などに活かすことが重視され,中流階級では貸本屋を通じて文学作品・実用書・啓蒙書が読まれ,江戸時代中期になると中流以下の女性にも読書が広まっていった。
これをどう裏付けるか。
該当論文では当時の絵画を元に判断を試みている。
江戸時代,特に江戸時代中期の浮世絵には,数多くの書を読む美人・遊女が登場する。これは庶民への読書の普及を反映していると考えられるが,女性のたしなみ・教養として理想化されている面もあると考えられる。
たとえば女性向けの啓蒙書である『女大学宝箱』が1716年刊行だから、この頃には一般女性もターゲットになっていたと言える。
西鶴作品の刊行はそれより30年ほど前になるが、識字率がすでに高かったか、少なくとも向上していく中で生まれたと考えてよいだろう。
貸本屋は全国にあり広く読まれた
『和本の世界2 江戸・世界に冠たる出版王国を支えたもの』によれば、貸本屋が全国に本を広めたという。
本の流通は、物之本では三都(京・大坂・江戸)に限られた本屋が握っていたが、大衆本である草紙の類は零細だが全国にあった貸本屋たちが広めた。
大衆本という名前どおりには思えるが、貸本屋が商売ができるほどに、読書は行われていたのだ。
なお、物之本とは「『枕草子』や『源氏物語』などの古典」が含まれ、草紙には西鶴の作品などが含まれるという。
貸本屋の存在をどう裏付けるかについては飽きたので調査を諦めたが、前掲論文の参考文献を読めば分かりそうだし、現存資料の貸本屋印とかから調べられそうだと考えておく。
では西鶴作品自体は人気だったのか
著作の残存数が多い
西鶴は残存している作品数が二十作品以上と、ほぼ同時代の他作家に比べて多い(Wikipedia調べ)。
西鶴自身が矢数俳諧とかの実績からめちゃくちゃ筆が速そうなので、そもそも多作だったとか、あるいは明治期の再評価により発掘されたから多く知られているという見方もできる。
とはいえ、作品数・残存数の差は、基本的には人気の証拠と考えていいだろう。
ぜんぜん売れなかったらそのまま処分されたり、散逸していてもおかしくないからだ。
でも『好色一代男』に比べて『武道伝来記』はぜんぜん売れへんやんけ!みたいなことはあったのかもしれない。
作品単位の人気までは分からないので、それは今後の課題としよう。
同時代の作家から第一人者とされている
ジャパンナレッジの記事『浮世草子の一ピーク~趣向主義の時代』によれば、西沢一風、都の錦といったほぼ同時代の作家から西鶴は草紙の第一人者と評されており「好色物の流行はまず西鶴にはじまるという認識があった」と言える。
明治期の再評価のきっかけも、山東京伝の著作からの遡及によるらしいから、第一に名の上がる存在であったことは間違いない。
ただし、以上は好色物にしか言及していないため、武家物とかの他ジャンルについては実はそうでもなかった可能性はある。
一方で(ちゃんと調べてないけど)他作家による武家物・町人物にあたるオマージュ作品も続いているように見えることから、好色物という呼称自体が今で言うラノベみたいな総称だったとも考えられる。
古典は難しかった
では、草紙の世界では随一だったとして、古典的な名作と比べたらどうだろうか。
やっぱり古典が読めるなら、まず古典を読むのではないだろうか。
『江戸時代における『源氏物語』の俗語訳』によれば、この時代、源氏物語は難解とされていたという。
都の錦は現代でいう「俗語訳」によって『源氏物語』を、教師がいない読者のために分かりやすく解釈していると考えられる。
この俗語訳が刊行されたのは西鶴の歿後である。
前掲の「物之本」の扱いも踏まえ、西鶴の全盛期には、古典は広まりこそすれ、勉強して読むことが必要な読み物だったのだろう。
つまり、より読みやすかった点で、古典よりも草紙の読者が多かったと考えられる。