フロンティア学院

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古典は本当に必要なのか?

「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムが開催され、ありがたいことにネット配信で無料視聴することができた。
www.youtube.com

そもそも学習指導要領の改訂により、高校教育における古典の授業時間が削減される、ということで、古典の授業は減らされても仕方ないのか?という問いかけであり、必要派不要派のプロレスという体裁の催しだった。
視聴直後の自分の感想はこれ。

その他イベント自体について思うことはあったが、実際に参加されていた方がすでに言及されているのでそちらを参照頂きたい。
jewelbox.hatenablog.jp
上記動画の書き起こしへのリンクもある。

以下は内容のざっくりまとめと、個人的な感想である。

古典の定義
・近世以前の日本・中国の史料およびそれを読む方法
(※イベント内での定義とは異なるが、この記事内ではこれで統一する)

古典不要派の主張
・実用性を考えると相対的に優先度が低い
・現代語訳で十分
・音楽や美術のように選択教科で良いのでは
・現代的に適切でない内容のため学ぶ必要はない

古典必要派の主張
・古典はおもしろい、心が豊かになる、定性的な教養になる
・原文でなければ味わえないリズムがある(特に和歌など)
・日本を理解する助けとなり、伝統を大切にする土壌が生まれる
・古典は過去事例の集積であり知識・ツールとして有用

両主張を対比させたかったので少々無理のある要約をしているので一次ソースにも目を通しておいて欲しい。
全体として不要派が実用性を主張するのに対し、必要派は実用性以外のところを主張しており、ややかみ合っていない印象はあった。
目的が問題提起と考えると、そういった対立構造も意図的であるのかもしれない。

ただ、古典は焚書!みたいな意見があったのは(古典の定義の違いとは思うが)残念なところ。不要派が圧倒的に有意義な議論を展開していたのに、結局ディストピアがお望みか~と次元の低い話が突然入り込んでしまった。

さて、以上を踏まえて、問題提起に対して個人的な感想を書きます。
個人的には必要派に立ちたいので、次をテーマにする。

高校生に対して古典の果たす役割は何であるのか?

つまり、古典が果たさなくてはならない役割がある、その役に立つからこそ、古典は必要なのだ。

古典教育は何を目的としているか

学習指導要領によれば、おおざっぱにまとめると次の通り。
・日本語がどうやってできたのかを知る
・日本語で何が表現されてきたのかを知る
・普遍的な教養を得る
そのために読んだり訳したりできるようになる必要があるというところ。

では、不要論者が大好きな「これが何の役に立つのか?」を考えてみよう。

成立過程を知ると何の役に立つのか?

日本語の成立過程とは歴史である。
中国から漢字を輸入し、仮名を作った。
和歌や随筆、物語などなどといった表現方法を生み出した。
日本語は常にバージョンアップしており、表現方法によって新たな文法が生まれたり、例えば外来語は翻訳やカタカナ語として日本語化されている。

「エモい」は「あはれ」であるとする説がある。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1612/06/news077.html
これは言葉は常に変化していることと、本質に大きな違いが無いことを同時に示している。
一時期、日本語の乱れ、若者言葉などと問題のように取り上げる風潮があったが、上記の成立過程を知っていれば、歴史上幾度もあった変化のひとつに過ぎないことがわかる。
むしろ、新しい文法、表現方法を自ら生み出す自由度さえ許容されているといえる。
(※それが日本語にのみ当てはまる特徴と言っているのでは無い)
つまらん小手先の言説に惑わされずに、本質に目を向けた対話をするために、言葉の成立過程を知ることは役に立つ。

表現の知識が何の役に立つのか?

「感想文とレポートの違い」が揶揄されるように表現には様々な方法があり、かつシーンに応じた使い分けが要求される。これも古典からは歴史を学ぶことができる。
なぜその表現が作られたか?を知ることは、新しい表現を生み出すことにつながる。

先日、世界一受けたい授業にて松本隆の作詞解説が放送されていた。
授業復習 | 世界一受けたい授業

「好き」という気持ちを具体的なエピソードで遠回しに示す。抽象的な表現により想像力を喚起する。(上記サイトには書いていないが)歌詞に縦読みを仕込む。
どう見ても和歌です。本当にありがとうございました、
これは松本隆が新規性の無いパクリ野郎と言いたいのではない。むしろ、古典を踏まえて現代に通じる表現を生み出したのである。
芥川龍之介も今昔物語などの古典を下敷きに『羅生門』他を書いた。
ちなみに夏目漱石が芥川の新規性を絶賛したエピソードがある。古典解釈の新しさと取ることもできるが、世間的には元ネタを知らなかったという心温まる解釈がされているようだ。
芥川龍之介「鼻」を絶賛した漱石は『今昔物語』を読んでいなかった? | 読読-よんどく-

表現の知識があれば、その知識をどう応用したのかという分析や気づきにつながる。
それは、天才の仕事を我が物にできる可能性を多少なりとも広げてくれる。
いや、詞も小説も別に書かないし、というツッコミがあるかもしれない。
では「何をどう表現したのか」を抽象化して、一つの問題解決の事例と捉えてみてはどうだろうか。
当然ビジネスシーンの問題解決事例でも挙げた方が具体的で実用的だ。しかし実生活とは関わりの薄い部分での事例を知ることで、却って客観的な視点で応用方法を見出せるとは考えられないか。かといって芸術や他国文化となると関連性が薄すぎたり地盤が違ったりで難易度が高い(ということにする)。
応用する人の考え方次第と言われると終了だが、歴史とセットで現代人から近すぎず遠すぎずの関係で事例を示せるのは古典のメリットではないか。
表現とは問題解決の歴史であり、将来の問題解決を生み出す材料として役に立つ。

普遍的な教養を得ることが役に立つのか

時代を通じて変わらない価値観だのなんだの、これはシンポジウムでも必要派から触れられており、一般的に古典のメリットとして挙げられる事項と思うが、正直個人的には分からない。
普遍的なら現代語でも十分なテクストが存在するはずであり、無ければ作るべきだ。
また、古くから語られているからと言って教養たり得るとは限らない。

とはいえ古典の必要性の話なので、古きを知ること自体が教養であると定義したい。
例えば『平家物語』という作品がある。千年近く前の戦争の話だ。
これぐらいは歴史として習う。
ここに加えて諸行無常のなんとかという一節があるとか、武士が自分の息子と同じ年頃の敵将を殺す話があるとかってなると、読んでいないと語ることが難しい。
ちょっと出典が無いんだけど、お話を書くときには設定では無くエピソードを書けという話がある。プレゼンや自己紹介でも同じで、エピソードを交えた方が納得されやすい。
古典も実際の内容を知ることで、上記程度のエピソードを交えた説明ができる。

国際化が叫ばれる今日、自国の文化を説明する機会が増える。
日本にはこんな古典がある、という話題自体が日本人としての強みになる。これは絵でも音楽でも同じことが言えるが、説明のしやすさを考えたら文章に分があるだろう。
自国の文化・歴史を裏付けするための最も手軽な手段として、古典は役に立つ。

学校教育は役に立つのか

以上が個人的に思う古典の必要性である。まとめると、
・本質に目を向ける点で、小手先のプレゼンテクに負けない実用性がある
・表現の変遷、一節の説明のためには現代語訳では不十分
・音楽や美術よりも利用がしやすい
このあたりで不要派と戦うことができるのではないか。
内容の不適切さについてはダビデ像がおちんちん丸出しだから不適切みたいなのと同じに感じるので、ちょっとスルーします。

で、古典の授業数を減らしてもいいのか?という話。
個人的には方法次第じゃないか?と思います。

ところでみなさん、学校で習った事って覚えてます?
経験上、平家物語について周囲に話しても、言われてみればあー回転ゲルとあったなあみたいな認識だったりします。
各項目にわざと書いたんだけど、役に立つと言いながら実際に「役に立っていない」人が存在している。
あれだけ習ってそんだけしか覚えてない。
でも言い換えると、あれだけ時間をかけたことで、興味がなくてもこれだけ覚えている。
平家物語だって行列だって学校で習ったところで何の使い道もない。でも、いざ使うとなったときに選択肢の一つに浮かび上がってくるかどうか。
授業っていうのは興味の無いことにインデックスを張るのが目的だと思うので、上記の目的を踏まえて、下地作りが出来ればいいと思います。
そのために、授業数が減るとして、インデックスがより薄くなることがどの程度影響するのか。そのあたりを掘り下げた議論ができると良いのかなと思いました。

ただシンポジウムでも両陣営から言われていたのは、教え方の問題で、これを改善することで授業数を減らしても問題ない、という落ち着け方はできそうな気がします。

まとめ

いかがだっ(略)
古典の未来という点では、今回の議論を踏まえた次のアクションが求められていることと思います。
上記はあくまで素人オ自分の意見にすぎないので、ガチの古典研究者あるいは教育者の総意に近いものとしてどういった必要性を考えているのかは再考してよさそうですし、必要性を最大化するための教材とは?とか教え方とは?とか、課題はあると思います。

さらに教育の問題に踏み込んで行くなら、あらゆる業務が先人の知恵によって効率化し、生産性向上していくように、教育も効率化して一つのことを学ぶための時間は減らせるはずだと思います。
その効率的な学びのために、教え方なのか、教科書なのか、あるいは生徒側の記憶の限界なのか、どこに問題があって、どう効率化するかの議論が合って良いと思います。(エライ人はもうやってるんだろうが、明確では無いからこういう話題が出てくる)
ボトルネックが不明な状態で授業だけが削減されるからなんでやねんって話になる。
受験特化だと塾の方がそのへん先鋭化してる感じはありますよね。
たとえば上記の必要性とかを踏まえても、同様に生産性向上が可能なんじゃないかって思います。
○○のために古典は必要なのか?とか、○○を学ぶために授業時間は十分なのか?とかで2ラウンド目とかどうですか?
個人的には古典教育で語られがちな「情緒」について掘り下げて欲しいです。
古典必要派が主張するそれがなんやねん第一位だと思います。

最後に、実績のある先生方のプロレスは単純に面白いので、これからも発信があると大変嬉しいです。貴重な機会をありがとうございました。