フロンティア学院

パブリックドメインから世界をめざす

家から一歩も出ずに平家物語の研究をする

久しく放置していましたが、お金を払う方の本を読んだり、他の所で文章を書いたりしてました。そのへんの言い訳は別途まとめます。


さて、当学院ではオンライン上のパブリックドメイン文献を扱っていますが、一体何がそんなに嬉しいのか?ということを改めて主張し、検証したいと思います。
そのために、例として「家から一歩も出ずに研究をする」ことにします。
※一部パブリックドメインとは関係ありません。

とはいえ論文ガチ勢の方々の観賞に堪えるものをアドリブで書くのは難しいので、そこんとこは容赦して下さい。


テーマは壮大に「平家物語諸本の成立順序を推測する(得長寿院供養を中心に)」としましょう。

平家物語の基礎知識

諸本について

まず当然のようにwikipediaを参照します*1。先人に感謝しつつ、稀に嘘が書かれているので注意しましょう。
記事より大雑把に平家物語の諸本は以下が存在する。

  • 語り本系
    • 城方本
    • 覚一本
  • 読み本系

その他の諸本については一旦スルーし、これらを対象としましょう。

検証対象文献について

J-TEXTS*2へ行きましょう。
「城方本」「覚一本(龍谷大学本)」「延慶本」「長門本」「盛衰記」全て揃っています。素晴らしい。もし皆さんが真面目に研究に取り組む際には、更に原典を参照する必要があると思いますが、家から一歩も出ないためにはこれで十分でしょう。

ちなみに家から出る場合、覚一本はどこででも手に入りますが、盛衰記、長門本は図書館に行けばあるところにはある、延慶本は大学図書館閉架図書とかにある感じです。城方本は見たことありません。(個人の感想です)

そんな入手困難なテキストがいきなり揃いました。

得長寿院の基礎知識

なにそれ

平忠盛が建立した、千一体の観音像を安置した三十三間の仏堂が得長寿院です。
それって三十三間堂……と思いきや、ググると別物であることがわかります*3

見に行こう

ついでなので観光してみましょう*4
平安神宮から西へ、冷泉橋を渡って川沿いに木々の生い茂る道を歩いて行くと、注意していなければ見落とすほどにひっそりと、得長寿院跡の石碑が佇んでいる。かつてこの地にもう一つの三十三間堂があったという……などと導入っぽい文章をでっちあげることができますね。

得長寿院供養はいつ行われたのか

さて、本題に入りましょう。

諸本の表記

諸本を参照すると、得長寿院供養の日程については概ね次のように書かれています。
城方本「天承元年三月十三日」
覚一本「天承元年三月十三日」
延慶本「天承元年三月十三日(甲辰)」
長門本「天承元年十一月二十一日、二十九日の予定が延期して翌年三月十三日」
盛衰記「天承二年二月二十一日、二十九日の予定が延期して三月十三日」
読み本系の差異が激しいですね。

史実を検証する

再びwikipediaを調査します*5
天承元年前後の史料としては「中右記」「長秋記」が該当する。
上記以外の参考としては「百錬抄」がある。これは鎌倉末期に成立した当時の史料まとめという性質なので、裏付けに使うには注意が必要ではある。

先に結論言っておきますが「天承二年三月十三日」が史実のようです。

中右記を検証する

中右記国立国会図書館デジタルコレクションにある*6
欠落してるのか天承元年の記載は無い。
関連しそうなところを抜粋すると、長承元年二月二十一日に「午後雨下頗雷鳴」とある。同二十九日は「終日天晴」とある。
三月九日に「千体観音堂供養習礼」、三月十三日(甲辰)に「千体観音堂供養可被行也」とある。
気になる記述としては同十三日の「甲辰日堂供養例、法成寺、宇治平等院例云々」
なお、天承二年は八月に改元しており、長承元年とイコールだ。それを踏まえると以上の記述は後日の記述か、書き直しがあったことを示している。

長秋記を検証する

長秋記も国立国会図書館デジタルコレクションにある*7
こちらは得長寿院に関する記載が無いが、近い日付で日干支が記載されているのでそれを参照する。
天承元年三月十九日が丙辰、二十二日が己未となっており、天承元年三月十三日は庚戌と計算できる。
また、長承元年四月八日が己巳となっていることから逆算して、天承二年三月十三日は甲辰と計算できる。
これにより中右記の日付表記に誤りの無いことが裏付けられる。
そもそも計算で出せると思うんだけどどうにも怪しかったので、同時代の資料からの検証となった。

百錬抄を検証する

百錬抄国立国会図書館デジタルコレクションにある*8
長承元年三月十三日に「得長寿院供養(上皇臨幸。備前守忠盛これを造進す)」とあり、平家物語の成立も含めた背景のうえで長承元年を採用している点を忖度しておく。

雑に結論を出す

語り本系では頑なに天承元年説を採用していることから、語り本系と読み本系は早い段階で分化したと考えられる。
というか得長寿院に関しては城方本と覚一本で本文が全く同じなので、今回の調査では語り本系についてはそれ以上は分からない。

読み本系は関連伝承の紹介や史実に照らし合わせた修正などが行われた、いわば註の入ったバージョンといえるが、日干支こそ合わせに行ったものの天承元年のままとしている延慶本が最も古いと考えられる。
また、長門本、盛衰記で見られる日程延期云々の下りは、中右記を参照する限り少なくとも盛衰記の記述は信頼できない。
仮説として盛衰記と中右記に矛盾があることから月を移動させた、とすれば長門本の成立はより後になると考えられる。

以上を踏まえると、まず原本Xが存在し、原本Xを継承した語り本系と、読み本系に別れた後、後者については延慶本→盛衰記→長門本の順に成立していった、というのが結論である。

先行研究を調査する

平家物語wikipediaに書いてあるとおり、このテーマの先行研究は腐るほど存在する。
今回はたった一行にのみスポットを当てたが、他の部分を見れば他の結論を得る事もできるだろう。
というか先行研究は最初に調査すべきである。当記事は分かってやってるので気にしてはいけない。

当然家から出ること無く調査を行う*9
橋口 晋作氏の『得長寿院の霊験譚をめぐって』*10が、本記事とほぼ同じ結論を、物語の成立過程から提示している。40年前の論文である。
自分の思いつきなど、たいがいは誰かが思いついているものだ。というのがこの記事のオチになります。

今後の課題を考える

読み本系の激変ぶりを見るに、語り本系は何故正しい年月日に改めなかったのか?という疑問が残る。
今回、元号周りを調査したのだが、日記類も元号が変わると新しい元号で正月から書き直してるのでは?と思える部分があり、たとえば改元年は不吉である、といった思想があったのではないだろうか?
大治六年=天承元年も改元してるじゃないかという話もあるが、これは天災が原因で、天承→長承の改元は疫病が原因である*11
語り本系には説話としての中身は無いが、読み本系では薬師如来の霊験云々とあり、病が治ったみたいな話が出てくるので、お話を重視する語り本としては疫病改元した年の話とするのは都合が悪い。とか。
これは他の年号改変の例なども合わせて研究の必要があり、今回の趣旨とも外れるため、今後の課題としたい*12

感想

雑な書きっぷりではあるが、オンライン公開されたパブリックドメイン資料を使った遊び方の可能性について伝われば幸いです。

しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの資料については検索性が低いため、本文を読む必要があるのがネックで、青空文庫のようなテキスト化が重要とも再認識した。
また参照資料をwikipediaを元に絞り込んだが、少なくともそこからは元々知ってた百錬抄に行き着くことができず、同じ理屈で見るべき資料を見落としている可能性がある。
近い時期の資料だと「兵範記」あたりは確認できなかったので、資料自体のオンライン化もまだまだ進んで欲しいところ。


過去、大学で論文を書いた時には先行研究どうやって調べるんだよ……とか閉架図書の手続きめんどくせえよ……とかで研究にかけるパワーそのものが削られていたように思う。
今となってはその労力の大半を椅子の上で済ますことができ、さらに探さなくても検索で済んじゃうような作業もあったりして、趣味レベルでの研究が捗ったり、専門的な人はもっと深い研究ができたりしていくといいんじゃないですかね。