フロンティア学院

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太宰治『斜陽』

恥の多い生涯を送ってきたので太宰治は教科書でメロスが走って以来、読んだ事がありませんでした。

図書カード:斜陽

なので、太宰については深くは存じ上げませぬ。世間では彼自身の人生と作品との結びつけや、複数の作品に渡るテーマなどを研究されているのでしょうが、そうした一切を知らずにこのブログを書いております。

それでもメロスがどうやら富野で言うキングゲイナー的な作品であるとの噂はかねがね聞き及んでおり、また作者が熱心な芥川信者であったこと、一部で熱狂的に支持されるような愛され方を見ていても、どうも太宰作品というのは、盗んだバイクで自由になれた気がする尾崎豊のような作品なんじゃないか、とは長年思っておりました。

ところが、実際に読んでみると、これはまったく違っておりました。と申しますのは、まず主人公が女性。物語もファンの方には失礼ながら、女々しいと言いますか、どちらかといえばバイクを盗まれた側、ガラスを割られた校舎の側のような内容で、やや自伝的にも思える作風は芥川よりも、むしろ漱石に近いようにも思われたのです。

女々しくて

何が女々しいって、落ちぶれた貴族の令嬢であるところの主人公が、貴族に見切りを付けておきながら、かといって不良にもなれず、ただ真似事をして私は悪い女なんだわみたいな、もちろん作品としてあえてそう描いているんだけども、牙を抜かれた虎というよりは虎にさえなれない猫のようで、太平洋戦争が私たちから戦うという気持ちを奪ってしまったのですとか適当な事を言っても納得してしまいそうなところだ。

あがいてもどうにもならない、というわけではなく、初めから諦めきってしまっている。近付けないから見下してあのブドウは酸っぱいんだと強がって見せる。そんな雰囲気が漂っている。諦観と呼ぶと高尚な感じがするぞ。

そのブドウが本当は甘くて美味しかったのだと思い知る話である。

なるしすて

劇中、主人公が憧れる男性像として、どうしようもない不良の芸術家が登場する。この人物の描きっぷりがどうも作者の理想100%という趣きで、太宰さんは多分こういう人になりたいんだろうな、と思いながら読んでいたが、改めてwikipediaを尋ねれば、なんとまあ作者自身がモデルのようだ。それで自分を理想化しておいて、その理想が高すぎて近付けない恨み辛みを主人公に代弁させちゃうという、前段の内容がそのまま作者自身にも言えてしまうというナルシステムを構築している。あまり深入りしないでおこう。

さなとりて

そういえば、本作の前半部分で、サナトリウム文学さながらの肺結核患者描写があるのだが、調べてみた所、終戦直後頃までは肺結核患者は増加傾向にあり、終戦直後に発表された本作もその影響下にあると思われるが、その後結核予防法などの施策により減少傾向に転化したため、これは最後のサナトリウム文学と言っても良いかもしれない。とはいってもつい最近まで白血病やら謎の不治の病やらで血脈は受け継がれているのだけれど。

それと、たまたまkindle青空文庫からチェーホフ桜の園太宰治の斜陽をダウンロードしてあって、どっちを読もうかなって思って斜陽を選んだんだけど、作中で「桜の園はお読みですよね?」みたいなセリフが出てきた上に、wikipediaによれば桜の園のオマージュ的作品だったという話もあり、これは選択を誤ったなと、ひどい偶然で後味の悪い思いをしてしまったので空気の綺麗な山奥で静養の必要があります。

そして、桜の園はまだ読んでおりませぬ。