フロンティア学院

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魯迅『阿Q正伝』

教科書に載る作品はつまらなく感じる。それは読み方を強制されるからだと思う。

物語は本来面白い物で、ぼくたちが漫画やアニメを楽しんだように当時の人達もこういった教科書に載るような物語を楽しんでいたのだ。

それが教科書で登場すると、途端に高尚な「正解」を持った作品とされてしまい、つまらなくなってしまう。

そうして昔の作品はつまらないなあと思って手に取ることもしない。それはとてもとても残念なことだ。

魯迅の作品はまさにそんな教育の被害者とも言える。

図書カード:阿Q正伝

物語をつまらなくする指導法

中3国語「故郷」の実践

このサイトはたまたま検索に引っかかっただけで他意は無いが、一般的に国語として教育されている内容で、自分もこのように習った覚えがある。

しかし普通に考えて、漫画の1コマ1コマを取りあげて「なぜ戦闘力が53万もあるのに、全力を出さなかったのでしょうか?」とか「大切な親友を殺害されたサイヤ人の気持ちを考えなさい」とか言われて、その作品を楽しめるだろうか? そのうえ「正解」を求められるのも気にくわない。

「相手が戦闘力の低い地球人だと侮っていたから」という「正解」があるとしても「実は戦闘力が53万も無くハッタリをかましていた」という読み方をしてもいいだろう。

そもそも、このコマにはこういう意味がある! などと熱く語るのはその作品が好きでたまらないオタクのやることで、それ自体は良い事であり否定しないが、興味の無い作品のオタク語りを聞かされるのは苦痛だろう。それを全国民に無理矢理聞かせ、テストまでするのが国語教育だ。

読み方をひとつも持たない学生にとっては道標となるのかもしれないが、なんとかならないものだろうか。

ヤンおばさんとチャー

ところで『故郷』は、上記のサイトで書かれていたような事はおろか、内容さえろくに覚えていないが、登場人物のヤンおばさんだけは記憶に残っている。

このヤンおばさん、ストレートに言うと滑稽なのである。皆さんも教科書の著者写真に落書きするようなノリで、ヤンおばさんをネタにして楽しんだかどうかはわからないが、ぼくはネタにした。

それは「教科書なのにふざけたことが書いてあるぜ」という気持ちでもあったのだが、よくよく思えば元々そういう風に書かれているので、お笑い芸人のネタを笑うように、そこは笑って良い所なのだ。「なぜ特別なスープはあったかいのでしょうか?」などと言う前に、まずは中年男性がアイドルソングを歌う様を笑っていいのだ。

つまり、そうやってまずは面白がる。で、それからヤンおばさんは何故滑稽に描かれているのか? 当時の社会情勢は? という話になるのだ。そのようにツカミを描いているのに、それを無視してオチや細部の解説ばかりするから素直に作品が楽しめなくなり、自ら発見したツカミの部分ばかりが記憶に残ってしまうのだ。

チャーについては省略する。

阿Q正伝はふざけた話

ここでようやく本題の阿Q正伝の話をしよう。まずヤンおばさん以上に滑稽なのである。少々親譲りの無鉄砲な夏目漱石にも似ているが、主人公の阿Qがどうしようもないやつなのだ。

どうしようもないやつが無茶苦茶をやって酷い目に遭う。たとえばハンナバーバラのアニメみたいなものだろうか。当時の人はこれを読んで、まずはこの滑稽さを笑っていたにちがいない。

教科書で紹介されるような歴史的な文学作品だと思って読み始めると、思いの外ふざけていて肩すかしを食らう。これは今までに紹介してきた作品についても同じ事が言える。

これは物語が本来「おもしろい」ものであるとも言えるだろう。横光利一も、純粋小説とは「通俗的かつ文学的な小説」と言っている。一方でこの通俗性が授業で取りあげられることはない。

むしろ滑稽さの中に、歴史の大きな転換期が描かれている、そんな理解の仕方でいいだろう。

阿Q正伝の見所

序文からなげやり

阿Q正伝はなぜ阿Q正伝というタイトルなのかを説明するところから始まる。なんとか偉そうに見せたくて頑張りましたみたいな書き方をしているのがもう笑いを誘う。

主人公の阿Qという名前もなげやりである。創作なんだから勝手な名前を付けてしまえばいいのだが、リアリティを出すためか、正式名が分からないのでQとする等と書いている。吾輩に名前がまだ無いのと似たようなものだ。そういえば審判の主人公もKだった。

自由な主人公

阿Qは劇中ひたすらやりたい放題に振る舞う。

自分がこう思うからそのようにするのだ! という意志を持ってルールもマナーも気にかけず自由に行動する。

しかし、振り返ればその行動も結果も、劇中のその時々の社会情勢によって左右されていることがわかる。

彼は本当に自由だったのだろうか? やりたいようにやっているはずなのに、それが本当にやりたかったのか、またはその行動で求める結果を得られていたのか、自由とは一体どのような状態を指すのだろうか。

革命の先にあるもの

本作は一応中国の革命を下敷きにしており、世間的にはその状況下の様々な人々の姿を描き社会批判を試みたことになっている。事実そういった側面もあるだろう。実際の歴史と重ねてみたり、あるいは作者の生い立ちを探ってみても良いかもしれない。

とはいっても、先に書いたとおり、そんなことは作品を好きになってから調べればいいので、まずは素直におもしろギャグマンガ阿Qくんとして楽しんでしまうほうがいい。

世の中には名著を楽しくアレンジ! みたいな参考書の類があるが、そもそも名著は元から楽しい。もちろん古い作品であるから当時の言葉や知識の注釈、書き換えが必要な部分もあろうが「原典はつまらない」ことを前提に書かれた解説が楽しいはずがない。そんなことだから教科書もつまらないものになってしまうのだ。

作品世界の革命をどうこう読み解くよりも、そういう腐敗したつまらない思想への革命が必要だろう。

教科書はつまらないのだろうか

ところで教科書に載る物について、ぼくはつまらないと同時に立派なものであるという先入観があった。

立派なものとつまらないものを類似に考えてしまう自分もどうかと思うが、それで音楽の授業なんかだと「とりあえず歌ってみましょう」とかいって、おそらく偉い人が良かれと思って掲載した「最近の曲」(当時)である『あの素晴しい愛をもう一度』や『トレイントレイン』などの曲を合唱したりした。

しかしそれらの曲を元々知らなかったぼくは、教科書に載るからには元々そういう立派な合唱曲だと思っていたし、むしろ原曲を聴いてすらフォークやロックでカバーされてるほどの名曲なんだ! と考えていた。一体何が学べたのだろう。

これは、その曲の背景を教えなかったぼくの教師に限った問題と思いたいのだが、近年ではSMAPいきものがかりが掲載されているそうで、同じようなことは起きていないだろうか。

そんなことが今も起きていたら、それは教育と呼んで良いのだろうか。