フロンティア学院

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尾崎紅葉『金色夜叉』

まず長い。当時の流行小説でラブコメだというので1click購入(0円)したものの、kindleのメニュー画面に表示される、内容量を示すバーの長さに圧倒される。

そして少し読む。

未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、……

あー、そういや紅葉は西鶴の後継とか言われてたわ……。これは手強いぞ。

図書カード:金色夜叉

などということは無いので安心して欲しい。ちょっと読み進めると合コンが始まる。続いて主人公である寛一とお宮がイチャイチャし始める。そこまで辿り着けなかったら、先に二葉亭四迷の『浮雲』を読むと良い。以前にも書いたとおり青空文庫組版は酷いものだが、少なくとも長くない。それにテーマ的に似ている部分もあるから、事前に読んでおくと更に楽しめる。

そして絶世の美女と描写されるお宮とラブラブしている寛一を何だこいつ……と思っているうちに場面は展開、二人の仲は引き裂かれるのである。ここまではネタバレしても大丈夫だろう。ここからが本編だ。そう、これがギルティクラウンなら1クール目、J・P・ホーガンなら人間ドラマが終わった所だ。

この悲しみをどうすりゃいいの、誰が僕を救ってくれるの

ユニコーンの歌詞にそんな意図があったかどうかは知らないが、まさにロミオとジュリエットがもし別々の道を歩んだら、という体で物語は展開する。吉川英治の『宮本武蔵』では「道を志す男」と「待つ女」といういわゆるひとつの理想的な人物像が描かれたが『金色夜叉』では全く逆だ。そればかりか『金色夜叉』の登場人物は全員がクズである。

なぜクズか。それはお金のせいである。金に逆らえない者、金に抗う者、金を利用する者、どいつもこいつも清々しいまでにクズばかりだ。世の中は金で動いているのだから金を中心に人々が振り回されるのは仕方がないし、それをリアルに描いているとも言えるが、タイトル通り、金色の夜叉だらけである。

しかし、主人公の寛一だけは原因が女だ。その女も金に流されたので間接的には金の被害者といえるが、直接的に金に振り回されない特別な存在なのだ。見方によっては解脱しているともいえる。それでもクズには違いないが。

その寛一に、金に振り回されている人達は「狂人だ」「真人間になれ」などと言う。

一体この世は何が正しく、何が間違っているというのだろうか。

 

やりきれない心を抱え、それでも生きることをあきらめない

各キャラの性格はほぼ固定されているのでシチュエーションコメディのように展開する。例えが分かりづらければ高橋留美子の漫画を想像するといい。当ブログ的には坊ちゃんあたりを例示してもよい。

クズとクズがぶつかるので、当然更なるクズを生み出し、誰一人幸福にならない。キャラ同士が出会う度に不幸に見舞われていく。人の不幸は蜜の味などという言葉もあるが、彼らが生み出し続ける不幸から眼を離せない。そこに救いはあるのだろうか。闇の中から抜け出す日は必ずある。必ず。

そうして『金色夜叉』は走り続け、人生を駆け抜けていく。

 

終わらない歌を歌おう、全てのクズ共のために

「未完の長編」などという煽りもあり、これ、どうやって収拾つけるんだよ。と心配にもなるが、そこは安心して欲しい。『金色夜叉』は単体でテーマとしては完結している。

続く『続金色夜叉』はスピンオフのようなもので「キャラ達のその後」みたいな作品だ。内容も酷い。ドタバタラブコメの挙げ句、そうなるのかよ! というメチャクチャな展開をする。しかし面白いのだ。「衝撃の結末」と書かれていたら叙述トリックだとバレバレなのに、それでも騙されてしまうのと同じである。これは是非読んで欲しい。はっきり言って「ふざけんな!」と投げ捨てたくなるような完全な蛇足に思えるだろう。

そうして怒りを覚えながらも『続々金色夜叉』を読むと、なるほど続と続々で『金色夜叉』に対する一つの回答が示される。つまり、この二作に関してはセットだったのだ。クズ共の世界に、ようやく光が見え始める。ロンリーガイは君や彼等のために歌い、笑えるようになった……のかもしれない。

遺作となった『新続金色夜叉』については、おそらくお宮に対する救いを描く予定だったものと想像できるが、先の二作で十分である。これは大団円のエピローグとして楽しもう。

 

Breakin' your law! Sin jits my yell!

僕はお宮が嫌いだ。この女が何かを言う度に虫唾が走る。何の意図があるにせよ、彼女の生き方はひたすら周囲に流され続け、出てくる言葉は言い訳ばかりだ。一体何を求めていたのか。お前の待ってる救いの主は最早二度とは現れないのだ。

一方で彼女と対比されるように悪女的な雰囲気のサブヒロイン、満枝が登場する。この女はそもそも悪評高く、その言動もはっきり言って下品で、寛一にとって迷惑な存在として描かれている。しかし、その迷惑な存在から伝えられる境遇や思いは、徐々に現在のお宮のそれと重なっていく。寛一にとってのお宮は別れた当時のお宮なのだからどうでもいい話なのだが、行動を起こしている満枝の方がよっぽど誠意があり、仮にお宮を許すのであれば、その前に満枝を受け入れるのが筋ではないか、という気持ちになってくる。

ところで、基本的にキャラが成長しないと先に書いたが、キャラの成長を描かなくても、こうしてその現状を掘り下げていくで見え方を変えることが出来る、という点も、描き方として見るべき所と言える。

そんなこともあって僕はお宮を好意的に見る事はできない。Cool soul but burnt! だ。

クズばかり登場する小説である。皆さんも、こいつだけは許せないというキャラを一人は見つけることが出来るだろう。しかし、彼等は基本的に不幸になるので安心だ。

 

あの頃、僕らはサーカスにいた

金色夜叉』は明治期の流行小説である。登場人物も書生や芸者、高利貸しといった時代を感じさせる面々である。文体も昔めいている。

しかし、それがどうだというのだ。吉川英治江戸川乱歩も今なお読まれ続けている。

言葉や時間というハードルこそあるものの、ある時流行した小説は、今でも十分に楽しむことが出来るのだ。

明治期、多くの作家達が新たな小説像を模索していた時代。あの頃のサーカス団は僕らにたくさんの宝物を遺していったのだ。

ありがとう、ありがとう、どうもありがとう。