フロンティア学院

パブリックドメインから世界をめざす

純粋青空文庫批判

私は青空文庫が大好きで、特にkindleでは青空文庫しか読んでいない。これからも続いて欲しいし、もっと作品も増えていって欲しい。

江戸川乱歩の公開なんてもう既に楽しみだ。TPPって何ですか!

でも、それでいいのか?と思う所もあり、思いの丈をそのままに書き付けるものである。

 ラインナップの吟味

洋書が少ない

翻訳の関係もあるので仕方ないとは思うが、教養として本を残していくという意味では国内作家に著しく偏っている現状はあまりよろしくは見えない。

その点プロジェクト杉田玄白デカルトマキャベリといった良く聞く奴をちゃんと抑えていて、結果としてはうまく補完しているとは言える。*1

思想系については図解雑学シリーズとか、解説サイト(哲学ならこことか)を読めばいいともいえるし、これらの古典は入手も容易だから趣旨としては問題ないと考えて良いのかもしれない。

 

明治以前の資料が少ない

それこそ国デコにあるような活字になっている古典についてすら取り揃えが皆無と言って良い。樋口一葉があるなら井原西鶴があっても良いだろう。

国デコと棲み分け、という話では無いことは前回書いたし、実際そうでない事は国デコ底本の登録作品が多数ある事からもいえる。

古くさいとか旧仮名なんか誰が読むんだと言う人もいるが、だからといって不要なのだろうか?

夏目漱石芥川龍之介を絶賛したというが、これは漱石が西洋に眼を向けていて、日本の古典に通じていなかった事も関係しているという。その西洋でもルネサンスという運動があった。古典は必ずしも無意味ではない。

 

以上二点については、おそらくは単純に、参加者が固定化してるので、専門分野が偏っているためだとはと思う。

最近では共産党宣言なんかも追加されていて、単に誰かがやればいい、という話ではあるようだ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001138/card47057.html

 

青空文庫のいいところ

たとえば北村透谷の本なんかは悉く絶版で、普通なら手に入らない。こういう資料が気軽に読めるというのはとても価値がある。

そういう登録作品がおそらく他にもあるはずだが、単に自分の知識が追い付いておらず、例を挙げられない。

分野別リストで辿ってみるのがいいかもしれない。偏りのすさまじさもよくわかる。

 

運営方法の吟味

本を守るのか、内容を守るのか

青空文庫は(我々は素人だから)出来るだけ自身に判断機能を持たせず、底本を守る事によって結果的に内容を守るという趣旨を掲げている(と解釈している)。

いや正直5字下げだろうが6字下げだろうがどうでもよく、それは「見出し」じゃねーか、と思うこともあるが、それが問題で、例えば熱田神宮略記の参拝位置に関する記述を見て欲しい。

(イ)(ロ)だけ1字余計に下がっている。この本イザナミの漢字間違えてたし誤植だろ~などと思ってはいけない。他のページを見れば分かるが、皇室に関する表記は直前に1字スペースを置くルールがあり、これもそのルールに従った物と考えられるのだ。

つまり、文字の下げ方、改ページの仕方ひとつを取っても作者に意図がある可能性を持つ。よって、それを守るようにしている。のはいいのだが。

浮雲なんかは後半の「白ゴマ」が気になってもう読書どころではない。

独特の記号を使った故の問題ではあるが、他にも「使えるのに使ってはいけない漢字」があるなど、内容を守るだけでなく伝える事を考えると、現状には不満が残る。原テキストから電子書籍やHTMLに変換する際に、それを適切に行えばいいだけではあるのだが。

また、いつか遠い未来に京極夏彦が追加されるようなとき、果たしてどこまで底本を守る事が出来るのか、彼の如く組版にこだわった作家が過去に居なかったと言えるのか、折り合いの付け方が悩ましい。

原本を重視するあまりに「読まれるもの」という事を忘れてしまっている部分が見え隠れする時があって、それでいいの?という疑問がある。

 

参加のハードル

なんというかハッキリ言って近寄りがたい。これは翻デジの話でも書いた事だが。

 丁寧に運営していることと、数人で回しているという実態がそうさせるように思えるが、wikiソースなんかの方が気楽な感じはある。こちらはいっそ気楽すぎる傾向はある。

途中でほったらかしても世間様に公開されて誰かが引き継いでくれるぐらいの気楽さは欲しい所。贅沢か。

しかし、これに限らず参加を戸惑うコミュニティは、裏側が全く見えないという傾向があるので、そのあたりの情報発信に問題がある、のかもしれない。

 

底本の潰し合い

これは個人的に青空文庫で最大の問題と考えている。

我々は現代を生きる日本人なので、当然、新字新仮名で書かれた作品を読みたい。しかし、青空文庫は旧→新に改めるには諸手続が必要で大変そうだ。

ではどうしよう?

そうだ、プロに任せよう。ちょうど復刻版が発売されている!買ってきて入力だ!

そんな理由かどうかは不明だが、実際に底本が2000年代重版のものを見かける。

これって、せっかくプロの方々が重版してくれたのに、それをコピーしてタダでネットに流すみたいなことしてません?

著作権が切れてるからいいんだよ!と言いながら万引きするみたいな。

「諸手続」のコストは誰が払ってるんだろう?

プロに任せてそれを底本にするっていうのは、プロを潰す結果にしかならないし、それは結局青空文庫自身を潰す結果になるだろう。

 

私論を言えば、今手に入る本よりも、手に入らない本の保存に注力して欲しいところ。

吉川英治とか普通に手に入るし、売れるからこれからも出る。図書館に行けばだいたい揃っている。かといって青空文庫に存在する価値はもちろんあるが、その優先度は本来低い物と思う。

 

純粋青空文庫とは

結局、判断・編集の機能は持つべきだろうなあと考える。青空文庫が純粋な青空文庫として進むためには「我々は素人」という前提は最早不要ではないだろうか。

包摂適用のルールや、旧仮名→新仮名変換のように規則=原理を議論・整備し、誰に於いても底本からは同一の出力が得られるようにする状況となればよい。そうすれば、仮に重版、再版が駆逐されても著作物は生まれ変わって生き続ける事が出来る。

もっといえば、プロの秘伝とされていた謎の技術を広く一般化すること自体に価値があるともいえる。

そもそも、重版、再版というシステムがどうなのか(江戸川乱歩全集なんてどれを買えばいいのか)という気持ちはあり、いっそ駆逐する道もあるとは思う。

だが、そういうマイナス面よりは、入手困難だった書籍を現代に復活させる場として青空文庫、というかパブリックドメインを扱うインターネットサイトが機能すればいいなあと期待している。

 

まあそういうわけで既に出来上がってるサイトにこんな私人の一意見をぶつけるのもどうよ、という気持ちもあり、しばらくは個人で色々やることにしました。

今のところ作業途中の物しか置いてないので特に言及しませんが、これについてはそのうち何かを書カントいけないな、と思っています。

*1:ただしこのプロジェクトは2015年12月現在ほぼ死んでいるのが残念