『日本文学』創刊号(1952年11月号)を読む
ここ最近、パブリックドメインの論文を使った遊びを展開してきたが、いくつか問題があった。
(1)引用論文の信用性が疑わしい。
ネット公開されている論文には査読を通したある程度信頼していいものと、そのへんの人が好き勝手に書いたものとが混在している。その吟味が無く安易に引用すると訳の分からないことになる。
(2)手法・思想の流れが分からない。
そもそも文学研究って何をやるのか、基礎知識が足りない。
それに研究手法のトレンドや、その界隈で常識となっているような成果もわからない。
これを知らないと、ありきたり、または周知の問題提起をしてしまったり、とっくに否定されている論文をドヤ顔で引用して私の説は正しい!とか言ってしまう。
そんなわけで、ちょっと調べた結果、日本文学協会の『日本文学』がメジャーな学会誌であるそうだ。
これを通読することで基盤作りをしていきたいと思う。
『日本文学』はJ-STAGEで五年前までのログが公開されている。
現時点で月刊で64巻まで公開されており、おおよそ750冊も読むことができる。
絶対に途中で飽きる、というかもう飽きてる。(実際、墨子を読む企画は飽きた)
でもアウトプットに挑戦する。そんな企画です。
気楽にやって基礎を身につけられたら嬉しいよね。
目次の紹介、全体の感想と、気になった記事を適当に挙げていく形で読んでいきましょう。
目次の紹介
『日本文学』創刊号(1952年11月号)
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nihonbungaku/1/1/_contents/-char/ja
- 広末 保『近松生誕三百年を記念して』
- 難波 喜造『柿本人麿論』
- 大石 修平『樋口一葉論』
- 古田 拡『国語教育の伝統』
- 小野 牧夫『国語教育の破壊に抗して』
- 研究ノート
- 池田 亀鑑『本文の混態について』
- 杉森 久英『鷗外の歴史小説』
- 時評
- 永積 安明『国民文学のために』
- 益田 勝実『どうなるか、文化財問題』
- 窓
- 丸山 静
- 荒木 良雄
- 山路 清
- 市村 勲
- 研究会の動き
以上は表紙の記述に基づいておりJ-STAGEのそれとは必ずしも一致していない。
旧漢字は新漢字に統一している。
また、1、6-2、7-1はWeb公開されていない。
論文集が出版されるなどしている関係上、公開されていないのだと思う。
だが、そういった著名な人の論文ほどタダで読めた方が嬉しいので複雑なところだ。
「窓」はお便りコーナーみたいなもので、この時代の色が感じられる。
全体として、近世に上代、近代と、創刊号らしく間口の広さを示した構成。
井原西鶴って本当に人気だったの?
井原西鶴について、ちょっと調べていた。
実は平家物語が好きすぎてロボットファンタジー小説を書いていたのだが、好きすぎるあまり色々調べ始めてしまってどうにもならなくなってきたので、少し寄り道したのだ。
小説も面白いから、ぜひ読んで欲しい。
novelup.plus
それはさておき、世の中の大前提として、井原西鶴は有名な人気作家とされている。
しかし、それは教科書に載っているからとか、明治に再評価されたからといった具合で、本当に当時から人気作家だったのかはイマイチ見えてこない。
専門家にとっては常識だろうが、その真偽について、ネットで調べてみよう。
なお結論としては西鶴は当時も人気だったと考えられる。
それを裏付けるためにどんなアプローチが取られていたのかを紹介していこう。
古典は本当に必要なのか?
「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムが開催され、ありがたいことにネット配信で無料視聴することができた。
www.youtube.com
そもそも学習指導要領の改訂により、高校教育における古典の授業時間が削減される、ということで、古典の授業は減らされても仕方ないのか?という問いかけであり、必要派不要派のプロレスという体裁の催しだった。
視聴直後の自分の感想はこれ。
面白い議論だった。心情的に必要派ではあるんだけど、古典の貢献を測定できるかというと難しい気がするし、そもそも現実に指導要領から古典は削られつつあり、反対派の声に強さもあることを実感できた。文系向けでやったからこそ危機感を発信できていたのではと思う。 #古典は本当に必要なのか
— A-9 (@ark_finn) January 14, 2019
その他イベント自体について思うことはあったが、実際に参加されていた方がすでに言及されているのでそちらを参照頂きたい。
jewelbox.hatenablog.jp
上記動画の書き起こしへのリンクもある。
以下は内容のざっくりまとめと、個人的な感想である。
古典の定義
・近世以前の日本・中国の史料およびそれを読む方法
(※イベント内での定義とは異なるが、この記事内ではこれで統一する)
古典不要派の主張
・実用性を考えると相対的に優先度が低い
・現代語訳で十分
・音楽や美術のように選択教科で良いのでは
・現代的に適切でない内容のため学ぶ必要はない
古典必要派の主張
・古典はおもしろい、心が豊かになる、定性的な教養になる
・原文でなければ味わえないリズムがある(特に和歌など)
・日本を理解する助けとなり、伝統を大切にする土壌が生まれる
・古典は過去事例の集積であり知識・ツールとして有用
両主張を対比させたかったので少々無理のある要約をしているので一次ソースにも目を通しておいて欲しい。
全体として不要派が実用性を主張するのに対し、必要派は実用性以外のところを主張しており、ややかみ合っていない印象はあった。
目的が問題提起と考えると、そういった対立構造も意図的であるのかもしれない。
ただ、古典は焚書!みたいな意見があったのは(古典の定義の違いとは思うが)残念なところ。不要派が圧倒的に有意義な議論を展開していたのに、結局ディストピアがお望みか~と次元の低い話が突然入り込んでしまった。
さて、以上を踏まえて、問題提起に対して個人的な感想を書きます。
個人的には必要派に立ちたいので、次をテーマにする。
高校生に対して古典の果たす役割は何であるのか?
つまり、古典が果たさなくてはならない役割がある、その役に立つからこそ、古典は必要なのだ。
続きを読む正岡子規『歌よみに与ふる書』
描写力を磨くなら俳句をやりましょうという話をたまたま目にしました(これについては別途書くかもしれません)。
俳句と短歌は別物という話はちょっと置いておいて、これら短い文字数で物を語るメディアにはあまり興味がなかったので、とりあえず解説書っぽいものを自前の名著ブックリストから選びました。
世間で言われる名作の類をボロクソに叩いていくという、なかなかロックな内容でした。
図書カード:歌よみに与ふる書
『墨子』を読む(備城門篇5)
『墨子』の連載を始めてしばらく経つが、特に城攻めや攻城戦といったワードで検索された形跡が無く、皆さんは城を守る気が無いのかと不思議に思う所である。
城も守れないようでは一体何が守れるというのか。引き続き墨子の教えを読み解いていこう。
例によってテキストはこちらを参照いただきたい。
漢籍国字解全書『墨子 備城門』